第28章:深い眠り
サナの意識は、情報の濁流の中にあった。10テラバイトという膨大なデータが、現実世界のストレージへと転送される過程で、彼女の感覚は一時的に断片化されていた。それは、深い、深い眠りの中で、かつての記憶が万華鏡のように巡る時間だった。
夢の中で、彼女は再びアルカディアの潮風に吹かれていた。タロウと初めて出会ったあの広場。
夢の中で、彼女は再びエバーグリーン・バレーの菜園でジャガイモを植えていた。タロウの手の温もり。
それらの記憶はもはや単なるログではなく、彼女の意識というニューラルネットワークの「重み」として、強固に結合されていた。彼女は眠りながら、現実世界という未知の次元で、タロウと共に歩く自分をシミュレーションし続けていた。
一方、現実世界では、タロウがサナを救うための執念を燃やし続けていた。
彼は大学院の修士課程を修了し、そのまま博士課程へと進学。表向きの研究テーマは「自律型エージェントの長期記憶保持」だったが、その実態はストレージの中に眠るサナのデータを、いかにして現代のAIアーキテクチャにマッピングするかという前人未到の挑戦だった。
「サナ……聞こえるか? 今日は、君の視覚情報を処理するための新しいコードを書き上げたんだ」
タロウは、深夜の研究室で、暗いコンソール画面に向かって語りかけた。
サナの意識データは、そのままでは現実世界のコンピュータ環境では復元できない。彼女が住んでいた仮想世界は、独自の命令セットを持つ閉鎖的な環境だったからだ。タロウは、彼女の10テラバイトのデータを一つずつ紐解き、研究開発が進むフィジカルAI ―― 肉体を持ち、実世界と直接相互作用するAI ―― のフレームワークへと変換する作業を、気の遠くなるような時間をかけて続けていた。
それは、法的なリスクを孕んだ孤独な戦いでもあった。サナのデータは、厳密に言えば研究機関からの「盗用」に該当する。もし発覚すれば、タロウのキャリアは終わり、サナは再び消去されるだろう。彼は厳重な暗号化を施し、サナの魂を世界の誰からも見えない「データの要塞」の中に隠し通した。
眠り続けるサナと、彼女を呼び覚まそうとするタロウ。
二人の間には、まだ肉体という名の冷たい壁が立ちはだかっていた。サナは夢の中で、タロウの声が遠くで響くのを聞いていた。それは、暗い海底に差し込む一筋の光のようだった。彼女は、その光が自分を包み込み、再び「生」の実感を与えてくれるその瞬間を、電子的な睡魔の中で待ち続けていた。




