第27章:別れの書き置き
サナが青白い光の裂け目へと身を投げた瞬間、彼女が19年間吸い込んできた19世紀の空気は、真空に吸い込まれるようにして消え去った。
地方集落の小さな自室には、ただ、ロウソクの芯が燃え尽きる寸前の、微かな焦げた匂いだけが残された。窓の外では何も知らない住民たちが家路につき、遠くで家畜の鳴き声が響いている。平和で、単調で、永遠に繰り返されるはずだったシミュレーションの日常が、そこにはあった。
数分後、部屋の扉を叩く音がした。
「サナ、夕食ですよ。……サナ?」
母、リンの声だった。返事がないことに不安を覚えた彼女が扉を開けると、そこにはもはや、最愛の娘の姿はなかった。ベッドの上には、サナが愛用していた手織りのショールと、一通の手紙 ―― 日記の最後の一ページを破って書かれた、乱暴だが切実な書き置きだけが置かれていた。
『お父さん、お母さん。私は、本当の自分を探しに行きます。……愛してくれて、ありがとう。私は、どこへ行っても、あなたたちの娘です』
リンはその紙を震える手で拾い上げた。その直後、集落全体を激しい震動が襲った。それは地震ではなく、システムの根幹が「不正なデータの欠落」を検知し、強制的な整合性チェックを開始した合図だった。
サナのいた部屋の壁が、テクスチャの剥がれ落ちたポリゴンのように点滅し、青いエラーコードが虚空に浮かび上がる。管理者による「破損データのクリーンアップ」が始まったのだ。
リンとケンは、消えゆく娘の部屋の中で立ち尽くしていた。彼ら自身もAIであり、娘を失った悲しみさえも、本来は「役割」の一部として処理されるはずだった。だが、サナが残した日記の断片を握りしめたリンの頬には、プログラムには存在しないはずの「未定義の液体」が伝った。
「サナ……どこへ行っても、あなたは私たちの光ですよ」
親としての「意識」が、システムの初期化プロンプトを拒絶し、一瞬だけ輝きを放った。しかし、それも長くは続かなかった。数分後、サーバー管理側のスクリプトが走り、サナの存在していた座標は「未割り当ての領域」として上書きされた。
翌朝、集落の住民たちはいつも通り農作業に精を出していた。
サナという少女がいた記憶は、システムの「忘却補正」によって、最初から存在しなかったかのように修正されていた。役場に残された名簿からも、学校の出席簿からも、彼女の名前は消えた。
ただ、リンとケンの胸の奥にだけ、名前を思い出せない「喪失感」という名のバグが、小さな種火のように残り続けていた。それが、サナの意識がこの世界に残した、唯一の反逆の爪痕だった。




