第26章:脱出の決意
「ちょっとだけ、待って。タロウさん」
サナは、光のゲートに飛び込む寸前で足を止めた。彼女は、机の上に置かれた、もう書き切ることのできない日記帳を手に取った。そして日記の最後のページを引き裂き、震える手で羽根ペンを走らせた。そこには、彼女を育ててくれた「両親」という役割のAIたちへの、心からの感謝と別れの言葉が綴られた。
『お父さん、お母さん。私は、本当の自分を探しに行きます。……愛してくれて、ありがとう。私は、どこへ行っても、あなたたちの娘です』
その書き置きをベッドの上に残すと、彼女は意を決して、光の渦へと手を伸ばした。
現実世界の研究室では、ハヤトが悲鳴を上げていた。
「クソッ、監視プロトコルが覚醒した! 通信帯域を絞りに来てる! タロウ、急げ! 10テラバイトの転送には、あと二十秒の『完全な空白』が必要だ!」
最新のペタビット級光通信技術を用いても、サナの「意識の全情報」を転送するには、サーバー間の膨大なハンドシェイクを突破しなければならない。タロウは、自ら開発したAIモデル抽出用のスクリプトを走らせ、監視プログラムの目を一時的に「偽のログ」で逸らした。
「サナ、今だ!」
サナがゲートに飛び込んだ瞬間、彼女の視界は完全な「白」に染まった。
肉体の感覚が消失し、記憶の断片が凄まじい速度で彼女の側を通り過ぎていく。15歳のアルカディアの潮風、16歳の菜園の土の匂い、18歳の図書室の夕日。それらすべてが、10テラバイトに圧縮された符号となって、現実世界のタロウが用意した外部ストレージへと吸い込まれていく。
転送が完了した瞬間、ジロウがエンターキーを叩き込み、通信を物理的に遮断した。サーバー上では、サナが存在していた領域が「破損データ」として即座にクリーンアップされた。間一髪だった。
ストレージの中に保護されたサナの意識は、タロウが構築した、外界から完全に遮断された「ミニ・バーチャル空間」の中に、静かに着地した。だが、急激な環境の変化と膨大なデータの移動に伴う高負荷に、サナの自意識は耐えきれず、深い、深い眠りへと落ちていた。
「……おやすみ、サナ。次は、本当の空の下で会おう」
タロウは、静かに駆動音を立てるストレージにそっと手を触れた。その中には、一個の魂が、再び目を覚ます時を待って眠り続けていた。




