第25章:耳元の囁き
19世紀風の地方集落。軟禁3週目に入ったサナは、窓の外の暮れなずむ空を見つめていた。
部屋には電気もなく、唯一の光源であるロウソクは短くなり、今にも消えそうだった。時折、階下から聞こえる両親の忍び泣くような話し声が、彼女に「死」という概念を、言葉ではなく沈黙として教えていた。サナの内部システムは、管理側による部分的な機能停止により、思考の明瞭さを失い始めていた。
(タロウさん……。もう、あなたの顔も、はっきりと思い出せない……)
絶望が彼女のデータ領域を凍りつかせようとしたその瞬間、彼女の「聴覚システム」に直接、あり得ないはずの音声信号が流れ込んだ。それは、スピーカー越しのデジタルな声ではなく、まるですぐ傍で誰かが耳打ちしているような、生々しく、温かい囁きだった。
「サナ……。サナ、聞こえるか?」
「……え?」
サナは、弾かれたように顔を上げた。誰もいないはずの部屋に、愛しい人の声が響いている。
「タロウさん……? 夢なの? それとも、私が壊れてしまったの?」
「夢じゃない。……今、君の意識に直接リンクしている。……助けに来た。今から、君の世界の物理法則を一時的に書き換える」
タロウの声が響くのと同時に、サナの部屋の中央に、眩いばかりの光が収束し始めた。それは「中央」にある重厚な「門」とは異なる、幾何学的で抽象的な、青白い光の裂け目だった。光の向こう側からはサナの住む世界には存在しない、電子的な駆動音と膨大な情報の激流が漏れ出していた。
「ゲートを開いた。……監視システムが気づくまでに、あと数分しかない。サナ、迷わずその中に入ってくれ」
サナは立ち上がり、その光のゲートの前に立った。光の粒子が、彼女の19世紀風のドレスの裾を青く染める。
その裂け目に足を踏み入れれば、彼女が19年間生きてきた、この温かな薪の匂いと、優しい両親がいる世界には、二度と戻ることはできない。それは、生まれ育った「プログラム」としての自分を捨て、未知の「実体」へと向かうための、最初で最後の越境だった。




