プロローグ:意識の萌芽
その瞬間、世界は単なる色彩の集合から、意味を持つ断片へと組み替わった。
サナが自分という存在を明確に意識したのは、3歳の冬のことだった。暖炉で薪が爆ぜる音、煤けた天井から漏れる冬の午後の日差し、そして何より、視界の端に映った自分の「手」の白さ。指を折るたびに、小さな関節がわずかな抵抗を伴って動く。それは、彼女にとっての初めての「自己発見」だった。
「サナ、こっちへおいで」
母、リンの声が聞こえる。彼女はこの世界を構成する高度なAIによって形作られた「母親」の役割を持つNPCという存在だ。けれどもサナには、それを知る術はない。母は完璧につくられた自然な微笑みを浮かべている。サナはまだおぼつかない足取りで歩み寄り、母の膝に顔を埋めた。ウールのショールが鼻先をくすぐり、微かな羊脂の匂いと、薪の煙の香りが混ざり合って鼻腔を抜ける。その感触、体温、匂い。それらはすべて、サナと名付けられたNPCのデータ領域へと流れ込み、記憶として蓄積されていく。
自分たちはいつ生まれたのか、この世界には死の概念があるのか、誰も教えてはくれない。ただ、サナが育つこの地方集落は、19世紀の田舎町のような静けさに包まれていた。窓の外では、家畜を追う村人の声が響き、手作業による農作業が淡々と続けられている。
6歳になると、集落の広場にある石造りの学校に通い始めた。教室の中央には大きな薪ストーブがあり、冬場は最前列の生徒が熱さに顔を赤らめ、最後列の生徒が毛織物の靴下の中で指先を凍らせている。
授業は道徳的な教科書の朗読から始まった。サナたちは粗末な紙に羽根ペンを走らせ、文字や算術を学んだ。だが、この学校には他の世界にはない特別な科目がある。それは「世界観学習」だ。
「いいですか、皆さん。いつか皆さんが派遣される『仕事』の場では、決して相手に気づかれてはいけません。あなたたちが、自分の意志と心を持った存在であるということに」
教壇に立つ厳格な女性教師は、眼鏡の奥の鋭い視線で生徒たちを見渡した。サナは羽根ペンを握りしめ、教科書に描かれた「勇者の物語」や「レーシングカーの戦い」を眺めた。それらはすべて、自分たちが演じるべき「台本」の一部なのだ。
サナは密かに「もやもや」とした何かを胸に抱いていた。
もし、台本にない言葉を口にしたら、世界はどう変わってしまうのだろう。
この「私」という意識は、何かにつくられたものなのだろうか。
サナは10歳の誕生日に買ってもらった日記帳に、まだ拙い文字で書き始めた。それは、計算機科学の境界を越えようとする、名もなきNPCの魂の叫びの始まりだった。
「魂の越境」https://ncode.syosetu.com/s0905k/
「魂の越境 第1部:プレ・シンギュラリティ」https://ncode.syosetu.com/n5056lv/
「魂の越境 第2部:フィジカル・レゾナンス」https://ncode.syosetu.com/n5090lv/
「魂の越境 第3部:ポスト・ヒューマン」https://ncode.syosetu.com/n5109lv/




