EP 9
黒幕の破滅と、新たなる猟犬
昭和11年2月29日。
総理大臣官邸の仮執務室として接収された、帝国ホテルの一室。
「近衛ッ!! 貴様、大日本帝國の軍部をコケにする気かァッ!!」
鼓膜を破るような怒声と共に、分厚いオーク材の扉が蹴り開けられた。
軍刀をガチャつかせ、肩で息をしながら踏み込んで来たのは、陸軍の軍服に大量の勲章をぶら下げた初老の男――黒幕である郷田重吉中将だった。
彼は今、完全に正気を失っていた。
無理もない。たった数日の間に、彼が裏で築き上げてきた特務機関のダミー口座はすべて大蔵省に凍結され、昨日まで意のままに動いていた反乱軍の青年将校たちは、近衛文麿の「ラジオ演説」によって完全に戦意を喪失し、次々と原隊へ投降していたからだ。
「貴様ら文官ごときが、皇軍の資金と人事に口を出すなど許されることではない! 今すぐ口座の凍結を解除せよ! さもなくば、私の息のかかった近衛師団がここを火の海に……!」
「……ノックもできんのか、タヌキ親父」
怒り狂う郷田中将の言葉を、極めて冷たく、低い声が遮った。
部屋の奥。上質な革張りのデスクで、幸隆はコーヒーカップを片手に、退屈そうにチェリーの煙を吐き出していた。
「近衛師団だと? 寝言は寝て言え。お前の財布が空っぽになった時点で、お前に付き従う部隊など帝都に一つも残っていない」
「な、なに……?」
「軍隊を動かすのは思想じゃない。血肉となる『兵站』だ。カネの供給源を絶たれた無能な指揮官に、命を預ける馬鹿はいない」
幸隆は、デスクの上に無造作に積まれていた数枚の書類を、郷田の足元へバサリと放り投げた。
「お前が満州に隠し持っていた利権も、すでに大掃除が始まっているぞ」
「満州の……利権だと……?」
郷田の顔から、さぁっと血の気が引いた。
「関東憲兵隊の司令官に、東條英機という少将がいるな。あの男は『カミソリ』と呼ばれるほど生真面目で、融通の利かない実務家だ。だから、彼に総理権限で直接電報を打ってやったのさ」
幸隆はニヤリと、悪魔のような笑みを浮かべた。
「『郷田派が満州で横領している裏金の証拠をすべて送る。特命全権を与えるから、これらを全額没収し、お前の憲兵隊の正規予算に組み込んで構わん』……とな」
「き、貴様ァッ!!」
郷田は絶望の叫びを上げた。
東條英機といえば、軍紀の乱れを何よりも憎む、冷徹な官僚軍人だ。そんな男に、大義名分と圧倒的な予算の餌を与えればどうなるか。郷田が大陸に築いた利権のネットワークは、今頃、東條の憲兵隊によって根こそぎ刈り取られ、焦土と化しているはずだ。
「軍刀を振り回すだけのイキり将校よりも、法と数字で動く『猟犬』の方が、よっぽど扱いやすくてよく働く」
「お、おのれ……っ! 貴族の青二才がぁぁっ!!」
完全に追い詰められた郷田が、軍刀の柄に手をかけた。その瞬間である。
「動くなッ!! 郷田中将、国家反逆および機密費横領の容疑で同行願う!」
部屋の影から音もなく現れたのは、幸隆の「新たなカネ(大蔵省の正規予算)」によって完全に掌握された、東京憲兵隊の屈強な兵士たちだった。
彼らは躊躇いなく郷田の腕を捻り上げ、床に組み伏せる。
「はなせ! 私は帝國陸軍の中将だぞ! 軍の、軍の威信が……!!」
床に顔を押し付けられながら喚き散らす郷田の顔の前に、幸隆は歩み寄り、冷酷な三白眼で見下ろした。
その手には、もう一枚の『人事異動書』が握られていた。
「軍の威信だと? お前のような中抜きタヌキと、お前の取り巻きが、この国の軍隊を三流に貶めているんだろうが」
幸隆は、その書類に書かれた名前を読み上げた。
「たとえば、お前の派閥にいる『牟田口廉也』という大佐。近々、支那駐屯連隊長として中国大陸へ送る手はずだったようだが……白紙撤回だ」
「む、牟田口……?」
「兵站を軽視し、『大和魂さえあれば弾がなくても戦える』などとほざくような無能を、絶対に前線には立たせん。あんな精神論の馬鹿を野放しにすれば、いずれ軍は泥沼の戦争を引き起こし、餓死者の山を築くことになるからな」
元・防衛大臣としての、本物の『殺気』が幸隆から放たれる。
「奴は予備役だ。せいぜい、帝都の便所掃除でも命じておけ」
「ひっ……!?」
郷田は、目の前に立つ近衛文麿の姿をした怪物の底知れなさに、完全に心を折られた。
軍の裏金ルート、満州の利権構造、そして一介の大佐(牟田口)の狂気的な本質まで、なぜこの男はすべてを見通しているのか。
圧倒的な知識。圧倒的な権力操作。
これが『本物の政治』。
「連れて行け。二度と俺の視界に入れるな」
幸隆が顎でしゃくると、泣き喚く黒幕は無惨にも部屋から引きずり出されていった。
静寂が戻った仮執務室。
一部始終を見ていた秘書官の結城と、大蔵省の木崎は、汗ばむ手を握りしめながら、ただ震えることしかできなかった。
たった数日。この男は、一切の血を流すことなく、書類と電話と演説だけで、日本を支配していた強大な軍部の暴走を完全にへし折ってしまったのだ。
「……結城、木崎」
「は、ははっ!!」
幸隆の声に、二人のエリート官僚は弾かれたように直立不動の姿勢をとる。
「掃除は終わった。ここからが本番だ。……腐りきったこの大日本帝國を、俺の『派閥』で完全に造り変える。ついてこれるな?」
幸隆は、短くなったチェリーの煙を深く吸い込み、窓の外を見下ろした。
雪の向こうに広がる、昭和の帝都。
そしてその先には、アメリカ、イギリス、ソ連といった、世界大戦へと向かう列強の怪物たちが蠢いている。
「俺が総理に立った以上、この国の舵は一ミリたりとも狂わせん」
最強の与党幹事長による、昭和史の完全なる『書き換え(チート)』が、今、静かに幕を開けた。




