EP 6
前線の晩餐会――美味いメシという暴力
昭和14年(1939年)冬。満州国境・ノモンハン方面。
夜の帳が下りた雪原は、死のような静寂と、マイナス三十五度という絶望的な冷気に包まれていた。
「……ううっ、寒い……足の指の感覚がない……」
「腹が減った……パン、黒パンはないのか……」
昼間の戦闘で、日本軍の『未知の兵器(バズーカとVT信管)』によって大打撃を受け、命からがら後退したソ連極東軍の兵士たち。
彼らが身を潜める雪壕には、暖を取るための薪はおろか、満足な冬用のコートすら行き渡っていなかった。スターリンの過酷なノルマと粛清の嵐によって、ソ連の兵站(補給線)は前線に到達する前にすでにボロボロだったのだ。
若きソ連の徴集兵・ミハイルは、凍りついて石のように硬くなった黒パンの欠片を、ガチガチと震える歯で必死に齧ろうとしていた。
「痛ッ……!」
歯茎から血が滲む。味などしない。ただ胃袋の強烈な痛みを誤魔化すために、冷たい塊を飲み込むしかなかった。
「……ミハイル。泣くな。我々は誇り高き赤軍兵士だ。資本主義の犬どもに、プロレタリアート(労働者)の忍耐力を見せてやるのだ……」
隣で震える古参兵が慰めるが、その声にも全く覇気がない。
彼らが信じてきた「労働者のための平等な国家」というイデオロギーは、この極寒と飢えの前では、あまりにも無力だった。
その時である。
ヒュオォォォォォ……。
風向きが変わった。日本軍の陣地がある方向から、夜風に乗って「ある匂い」が漂ってきたのだ。
「……ん? なんだ、この匂いは……?」
ミハイルは、思わず凍りついた鼻をヒクつかせた。
それは、砂糖と醤油が熱せられ、肉の脂と絡み合う、焦げるような甘く香ばしい匂い。
さらに、カツオと昆布の濃厚な出汁に、豚肉と根菜の旨味が溶け出した、胃袋を直接鷲掴みにするような強烈な香りだった。
「……肉だ。肉を……煮込んでいる匂いがする……ッ!!」
古参兵が、目を血走らせて雪壕から身を乗り出した。
「ば、馬鹿な! 最前線の、この極寒の塹壕の中で、温かい肉料理を作っているだと!? 煙も見えないのに、どうやって火を焚いているんだ!」
一方、その匂いの発生源である日本軍の塹壕は、まるで『冬の慰安旅行』のようなリラックスした空気に包まれていた。
「いやぁ、この『加熱式レーション』ってのは本当に魔法みたいだな! 水を入れるだけで、アツアツのすき焼きができるなんてよ!」
「こっちの豚汁も最高だぜ! 具がゴロゴロ入ってやがる。……おい新兵、ご飯(銀シャリ)の温めは終わったか?」
「はいっ、小隊長殿! いつでもいけます!」
最新のナイロン製防寒着と使い捨てカイロによって、寒さなど全く感じていない日本兵たち。彼らは、幸隆が財閥の工場にフル稼働で生産させた『化学加熱式レトルト食品』の封を次々と切り、最前線とは思えない豪華な晩餐会を開いていた。
「うめぇぇぇッ!! 疲れた体には、やっぱりこの甘辛いタレと牛肉だぜ!!」
「食ったら、温かいうちに寝袋(最新のダウン素材)に入って交代で寝るぞ。明日は敵さんが降伏してくるかもしれないからな」
「ははっ、違いねえ!」
笑い声と共に、すき焼きをかき込む音、熱い豚汁をすする音が、静かな雪原の夜に響き渡る。
風に乗って、その音と「暴力的なまでに美味そうな匂い」が、ソ連軍の陣地へと絶え間なく送り込まれていく。
「……あ、あああ……ッ」
ソ連兵のミハイルは、自分の手にある血のついた氷のような黒パンと、風に乗ってくる肉の匂いを交互に確認し、ついにボロボロと涙をこぼした。
「……嘘だ。我々(ソ連)の国が一番豊かで、平等な労働者の楽園のはずだ……! なのに、なぜ資本主義の連中が温かい肉を食って笑い、我々が凍えながら石を齧っているんだ……!!」
極限状態における、圧倒的な生活水準の格差。
それは、昼間の砲撃やバズーカよりも深く、ソ連兵たちの心を決定的に破壊した。
「……だ、騙されるな同志たちよ!! あれは悪辣な資本主義の罠だ!! 匂いの中に毒ガスが混じっているに違いないッ!!」
部隊を監視する共産党の政治将校が、パニックを起こして拳銃を振り回し、わめき散らす。
だが、飢えと寒さに限界を迎えたソ連兵たちの目に、もはや彼らの指導者(将校)を敬う光はなかった。
あるのはただ一つ。
『あっち(日本)に行けば、温かい肉が食える』という、生物としての根源的な欲求だけだった。
「……総理の仰った通りですな。兵站を破壊された軍隊は、もはや軍隊ではない。ただの『飢えた暴徒』に成り下がる」
はるか後方の安全な司令部で。
報告を受けた幸隆は、熱いブラックコーヒーをすすりながら、冷酷に口の端を歪めた。
「さあ、ヒグマの群れは、飢えと寒さで完全に発狂寸前だ。……トドメの『餌』を撒いてやろうぜ。明日の朝、極東の雪原で、人類史上最大の『集団投降劇』が開幕する」
イデオロギーという名の幻想を、「美味いメシ」という絶対的な現実で叩き潰した大日本帝國。
スターリンの恐怖政治が、ついに根底から崩れ去る瞬間が迫っていた。




