EP 2
鋼鉄の大元帥――スターリンの猜疑心
昭和14年(1939年)冬。
極寒のモスクワ、クレムリン宮殿。
分厚いカーテンで閉ざされた執務室には、パイプタバコ(ヘルツェゴビナ・フロール)の重苦しい煙と、胃の腑が凍りつくような死の静寂が漂っていた。
「……つまり、日本国内および満州における我が同胞たちの赤化工作は、すべて『失敗』に終わったということだな? ベリヤ同志」
ソビエト連邦の最高指導者、ヨシフ・スターリン。
その言葉の裏にある「粛清」の気配に、秘密警察(NKVD)長官のベリヤは、丸眼鏡の奥の目を血走らせて震え上がった。
「も、申し訳ありません、書記長同志! 我々の工作員が日本に潜入しても、日本の労働者たちは誰一人として我々の革命思想に耳を貸さないのです! 奴らは毎日、温かい白米と豚肉を食い、休日はデパートで買い物をしている有様で……」
「言い訳は聞かん」
スターリンは、冷酷な目でベリヤを睨みつけ、デスクの上の報告書を叩きつけた。
「アメリカが極東の覇権を日本に譲り渡すという、屈辱的な新条約にサインしたという報告は受けている。……あの『フミマロ・コノエ』という男、ただのブルジョワ貴族かと思えば、とんだ悪魔だったようだな」
スターリンの猜疑心は、今や極限に達していた。
ヨーロッパではナチス・ドイツが暴れ回り、いずれソ連にも牙を剥くであろうことは彼も予感していた。しかし今、それ以上に恐ろしいのは、極東で異常な速度で「超大国化」していく大日本帝國の存在だった。
労働者を「豊かさ」で洗脳し、共産主義のイデオロギーを無力化する。それは、スターリンが最も恐れる『資本主義の完全なる勝利』の証明に他ならない。
「……日本の力が完全に固まる前に、物理的に叩き潰す」
スターリンは、パイプの灰を乱暴に叩き落とした。
「イデオロギーで勝てないのなら、圧倒的な『鉄と血の波』で飲み込むまでだ。……ジューコフを呼べ。極東軍に、満州への『全面侵攻』の準備を命じる」
「しょ、書記長同志! 現在の極東軍は、先の粛清の影響で有能な将校が不足しております! しかも、この厳冬期に数十万の兵を動かすなど、補給線が……!」
「我が赤軍の強さは将校の頭脳ではない。『数』だ。……量が質を凌駕するのだ」
独裁者の命令は絶対であった。
史実における局地戦「ノモンハン事件」とは比較にならない、数千輌の戦車(最新鋭のT-34プロトタイプを含む)と、三十万を超える赤軍兵士たちが、極東の国境地帯へと雪崩を打って集結し始めたのである。
◆
数日後。帝都・東京、首相官邸。
「……というわけで、スターリンのヒグマ野郎が、完全に理性を失ってシベリア鉄道に大量の戦車と兵士を詰め込んでいるようですな」
外務大臣の吉田茂が、呆れたように報告書を放り投げた。
当然のごとく、モスクワと極東軍司令部の間で交わされた暗号通信は、理研の「半導体コンピューター」によってすべて解読され、日本軍はソ連の侵攻ルートから部隊の編成まで、一桁の狂いもなく把握していた。
「三十万の兵力に、戦車三千輌。……まともにやり合えば、我が関東軍も無傷では済みませんぞ。総理」
結城秘書官が、額に汗を浮かべて地図を見つめる。
だが、幸隆は最高級のソファに深く腰掛け、ブラックコーヒーをすすりながら冷酷に笑った。
「まともにやり合う? 馬鹿言え。誰がわざわざ、ヒグマの土俵(正面からの殴り合い)に付き合ってやるもんか」
幸隆は、地図上の『満州国境』に葉巻の先端を押し付けた。
「冬のシベリアや満州の気温は、マイナス三十度を下回る。スターリンの野郎は『数』で押し切れると思っているようだが……兵站を軽視した軍隊は、自然の前に自滅する」
「……と、おっしゃいますと?」
「精神論で寒さを耐えようとするから負けるんだ。寒さ(自然)は『カネと科学』で解決する」
幸隆の三白眼が、極悪な商人のように光った。
「第四章の改革で力をつけた財閥の化学工場に、フル稼働で『アレ』を作らせている。……前線で戦う我が軍の兵士たちに、資本主義の『温かさ』を存分に味わってもらおうじゃないか」
圧倒的な数とイデオロギーで押し寄せるソ連軍に対し。
幸隆は、大砲の数ではなく、現代の「圧倒的なロジスティクス(物資と科学)」で迎え撃つ準備を整えていた。
独裁者の猜疑心が引き起こした、極東の雪原における史上最大の防衛戦が、今、静かに幕を開けようとしていた。




