第六章 赤いヒグマの解体――「イデオロギー」は腹を満たさない
赤化工作とカツ丼――イデオロギーの敗北
昭和14年(1939年)末。
帝都・東京の下町。冷たい木枯らしが吹く中、薄汚れたコートに身を包んだ二人の外国人が、路地裏に身を潜めていた。
ソビエト連邦の内務人民委員部(NKVD)から密入国した、赤化工作員である。
「……イワン同志。日本の『プロレタリアート(労働者階級)』の怒りは、今まさに爆発寸前のはずだ。彼らを扇動し、この憎き資本主義と天皇制の国に、偉大なる共産主義革命の火を放つのだ」
「ああ。見ろ、ちょうど工場から、搾取され、飢え苦しんだ哀れな労働者たちが出てきたぞ」
彼らの視線の先、本田宗一郎が取り仕切る下請けのエンジン部品工場から、終業のサイレンと共に大勢の工員たちが吐き出されてきた。
イワンは、カバンの中に忍ばせた「資本家を殺せ」「労働者よ団結せよ」と書かれた大量のビラ(赤旗)を握りしめ、彼らに接触しようと息を巻いた。
だが。
「いやー、今日も定時(8時間)でキッチリ上がれたな! 残業代もたっぷり稼いだぜ!」
「明日は土曜で休みだろ? 浅草に新しくできた映画館に、活動写真を見に行くんだ。帰りは三越で女房にコートを買ってやらなきゃな!」
「ははっ、景気がいいな! よし、今日は駅前の食堂で豪遊と行くか!」
工員たちの顔には、疲労や絶望の色など微塵もなかった。
真新しいウールのコートを着込み、懐には分厚い給料袋を忍ばせ、誰もが腹の底から笑い合っている。
「……な、なんだ、あれは? なぜ、搾取されているはずの労働者が、あんなに血色が良く、休日の娯楽の話などしているのだ……!?」
イワンたちは、目を疑った。
彼らが祖国(ソ連)で教え込まれてきた『資本主義の地獄』の光景が、どこにもない。むしろ、過酷な五カ年計画とスターリンの粛清に怯え、黒パンすら満足に食えない自分たちの祖国よりも、遥かに豊かで自由な「労働者の楽園」がそこにあった。
混乱した工作員二人は、工員たちの後をつけて、大衆食堂へと足を踏み入れた。
そこで彼らが目撃したのは、さらに絶望的な光景だった。
「おやじ! カツ丼大盛り! あとビールも頼む!」
どんぶりから溢れんばかりの、黄金色に輝く豚の揚げ物。それが甘辛い出汁と卵でとじられ、ツヤツヤの白いご飯(銀シャリ)の上に鎮座している。
当時、世界中のどこを探しても、一介の工場労働者が毎日こんな「貴族のような食事」を腹一杯食える国など存在しなかった。
「グゥゥゥゥッ……」
数日間まともな食事をとっていなかったイワンたちの腹が、悲鳴を上げる。
「……イワン同志。我々も、あ、あれを一つ……」
たまらず注文したカツ丼を一口食べた瞬間。
「……ッ!? な、なんだこれは!? 豚肉の脂の甘み、卵のまろやかさ……そしてこの白い穀物は、まるで天上の食べ物だ……!!」
イワンの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
美味すぎる。こんな美味いものを、日本の労働者は毎日食べているのか。
「……革命など、起きるわけがない。こんな美味いメシを食って、休日に映画を見ている連中に、『資本家を倒して我々(ソ連)と同じ生活になろう!』とビラを撒いて、一体誰が賛同するんだ……!!」
イワンは、どんぶりに顔を突っ伏して号泣した。
イデオロギー(共産主義)という名の薄っぺらい幻想が、日本の圧倒的な『カツ丼の暴力(生活水準の高さ)』の前に、完全に粉砕された瞬間だった。
「……その通りだ。腹一杯メシを食っている人間に、革命の火種は着かない」
不意に、食堂の奥から、冷酷な声が響いた。
「なっ……!?」
イワンたちが振り返ると、そこには、目立たないハンチング帽を被った近衛総理(若林幸隆)と、葉巻をくわえた外務大臣の吉田茂が、静かにカツ丼を啜っていた。
さらに、食堂の周囲は、すでに東條英機率いる特務憲兵たちによって完全に包囲されていた。彼らの密入国の情報も、モスクワとの怪電波も、すべて理研の「半導体コンピューター」によって筒抜けだったのだ。
「お前らのような工作員が入り込む隙間(貧困)は、この国のどこにもない」
幸隆は、食後のハイライトに火を点け、紫煙をふうっと吹きかけた。
「労働者を豊かにする。それが最強の『防共(反共産主義)の壁』だ。……スターリンの馬鹿に教えてやれ。思想なんかじゃ、人間の胃袋は満たせないってな」
「お、恐るべき男……!! フミマロ・コノエ……!!」
手錠をかけられ、連行されていく工作員たち。彼らの心は、拷問を受けるまでもなく、日本の「圧倒的な豊かさ」によってすでに完全に折られていた。
「総理。……いよいよですな」
吉田茂が、アメリカの次は北の超大国を見据えて、悪党の笑みを浮かべる。
「ああ。赤化工作が通じないと分かれば、猜疑心の塊であるスターリンは、必ず『物理的な暴力』で満州の国境を破りに来る」
幸隆の三白眼が、シベリアの凍てつく大地を冷酷に見据えた。
「だが、軍隊も同じだ。メシと寒さ(兵站)を制した者が、戦争を制する。……赤いヒグマを、冬の雪原で完全に解体してやる」
最強の与党幹事長による、人類最大のイデオロギー国家に対する「富と兵站による殲滅戦」が、今、静かに幕を開けた。




