EP 9
見えない眼と空の王者――鉄の棺桶
昭和14年(1939年)冬。
ハワイ・ホノルル沖、アメリカ大統領専用重巡洋艦の特設会議室。
暗号が完全に解読されているという絶望的な事実を突きつけられ、ルーズベルトの額には玉のような冷や汗が浮かんでいた。
だが、超大国のトップとしての最後の矜持が、彼を辛うじて支えていた。
「……確かに、情報戦においては我が国の敗北だ。認めよう」
ルーズベルトは震える手で新しいシガレットをホルダーに押し込み、火を点けた。
「だが、近衛総理。戦争とは最後は『物量』だ。アメリカが持つ圧倒的な鉄の生産量、無尽蔵の石油、そしてこの窓の外に広がる無敵の太平洋艦隊……。いくら暗号を読もうが、この『物理的な暴力』の差は覆せない。いざ撃ち合いになれば、日本は必ず負けるのだぞ」
それは、負け犬の遠吠えに近い、大国ゆえの驕りだった。
幸隆は、呆れたようにため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「物量、ね。……ルーズベルト。アンタは本当に、19世紀の『大艦巨砲主義』から頭がアップデートされていないらしい」
「なんだと?」
「少し風に当たろう。アンタに極上の『余興』を見せてやる」
幸隆は、車椅子のルーズベルトを甲板へと促した。
太平洋の青空の下、アメリカの誇る巨大な戦艦群が、威圧するように周囲を囲んでいる。
ルーズベルトは、その鉄の城壁を見て少しだけ安堵の表情を浮かべた。これこそがアメリカの力だ、と。
「総理。……そろそろ『時間』ですぞ」
隣に立つ吉田茂が、懐中時計を確認しながらニヤリと笑った。
その直後である。
アメリカ軍の重巡洋艦の艦橋から、血相を変えたレーダー手と通信士が転がるように駆け降りてきた。
「だ、大統領閣下ッ!! 緊急事態です! 突如として我が艦隊の真上、高度六千メートルに、所属不明の大編隊が出現しました!!」
「出現しただと!? なぜ今までレーダーで探知できなかったのだッ!」
ハル国務長官が怒鳴りつける。
「わ、わかりません! 我々の旧式レーダー(SCレーダー)には、直上に来るまで一切の機影が映りませんでした! しかし……!!」
通信士は、信じられないものを見るような目で、少し離れた海域に停泊している日本の空母『翔鶴』を指差した。
「日本の艦隊は、編隊が到着する数十分も前から、全艦艇の対空砲を正確に空の『一点』へ向けて追尾していました……! 奴らは、我々には見えない遥か遠くの空から、すべてを『視て』いたのです!!」
「なっ……!?」
ルーズベルトが絶句した瞬間。
ギュオォォォォォォォォンッ!!!
雲を引き裂き、太陽を背にして、深緑色の猛禽の群れが一気に急降下してきた。
本田宗一郎が組み上げた『DB601』液冷エンジンの凄まじい咆哮が、ハワイの空を震わせる。
『十二試艦上戦闘機(改)』――大日本帝國が誇る、空の王者たちである。
「バ、バカな……なんだあのスピードは!!」
「あの降下角度から、機体が空中分解せずに引き起こせるだと!?」
アメリカ軍の将兵たちが、甲板にへたり込みながら悲鳴を上げた。
零戦の大編隊は、アメリカの戦艦の巨大なマストの隙間を縫うように、あり得ない速度と旋回性能で飛び回り、そして一瞬にして再び天高くへと舞い上がっていった。
もしこれが実戦で、彼らが魚雷や爆弾を抱えていたら。アメリカの太平洋艦隊は、一発の砲弾を撃ち返すこともできず、ただの一瞬で海の底に沈んでいた。
「……理解できたか、ルーズベルト」
幸隆は、轟音が去った後の静寂の中で、冷酷な声を響かせた。
「アンタたちのレーダー(眼)は節穴だ。だが、我が軍の『八木アンテナ(極超短波レーダー)』は、水平線の彼方からアンタたちの動きをすべて視ている」
幸隆は、アメリカの誇る巨大戦艦群を、ゴミでも見るように指差した。
「眼の見えない巨人が、いくら分厚い鉄の鎧を着て、巨大な棍棒を振り回そうが、空飛ぶ猛禽には絶対に当たらない。……アンタたちが誇るその無敵の艦隊は、ただの『浮かぶ鉄の棺桶』だ」
暗号(脳)を読まれ、レーダー(眼)を奪われ、制空権(頭上)を完全に支配された。
ルーズベルトの目の前で、アメリカの「圧倒的な物量」という最後の拠り所が、音を立てて崩れ去った。
「あ、ああ……」
車椅子の怪物は、完全に言葉を失い、シガレットホルダーを海へと落とした。
勝てない。
今、この極東の島国と戦争を始めれば、アメリカ太平洋艦隊は敵の姿を見ることもなく一方的に蹂躙され、アメリカ本国すらも無傷では済まない。
「……私の、負けだ」
ルーズベルトは、深く、深く頭を垂れた。
ヨーロッパの覇王ヒトラーを手玉に取り、ついに世界最強の超大国アメリカの大統領すらも、一発の銃弾も撃たせずに「完全降伏」へと追い込んだのだ。
「降伏を受け入れよう。……近衛総理。君の要求は、何だ?」
嗄れた声で問うルーズベルトに、幸隆は口の端を歪めて、極悪非道な、しかし確固たる『平和』をもたらすための要求を突きつけた。
「ディールの時間だな。……ペンを用意しろ、大統領」
大日本帝國が、事実上の「世界覇権」を握るための新しい条約が、今、ハワイの海上で結ばれようとしていた。




