EP 4
凶刃と実戦合気道
先ほどの青年将校たちを追い返してから数時間後。
すっかり夜の帳が下りた荻外荘は、降りしきる雪の音だけが響く静寂に包まれていた。
「……さて、大命を受けた以上、宮中へ参内する手はずを整えねばならんな」
幸隆は、書斎のデスクで一人、今後の組閣名簿の構想を練っていた。
史実通りにいけば、軍部の暴走はさらに加速する。それを止めるには、生温い文官ではなく、強権を発動できる「実務型」の悪党を揃える必要がある。
ふう、とチェリーの煙を吐き出した、その時だった。
カチャリ。
背後の窓ガラスが、極めて静かに、外から外された音がした。
(……来たか)
幸隆は振り返らない。
ただ、手元の灰皿にタバコの灰をトントンと落とすだけだ。
「公爵閣下、天誅!」
押し殺したような、しかし狂気を孕んだ低い声と共に、背後の暗闇から黒い影が躍り出た。
軍部の過激派が放った暗殺者だ。
手には、日本刀を短く詰めたような鋭い短刀が握られ、一直線に幸隆の背中(心臓)へと突き出される。
「閣下ァッ!!」
異変に気づき、部屋に飛び込んできた秘書官が、絶望的な悲鳴を上げた。
刃が近衛文麿の華奢な体に突き刺さる――誰もがそう幻視した瞬間。
スッ……。
幸隆の体は、まるで蜃気楼のようにブレた。
いや、違う。暗殺者の突進の軌道から、半歩だけ「軸」をズラしたのだ。
「な……!?」
空を切った暗殺者が体勢を崩す。
そこへ、幸隆は咥えタバコのまま、ぬらりと手を伸ばした。
近衛文麿の肉体は、たしかにひ弱だ。令和の幸隆が持っていた、分厚い筋肉はない。
だが、幸隆が修めた『合気道』は、筋力で相手をねじ伏せる武術ではない。
相手の「殺意」と「突進力」をそのまま利用し、円の動きで流し、関節を極める実戦の徒手空拳である。
「手首が甘い」
幸隆は、暗殺者の短刀を握る手首をふわりと下から包み込むように掴んだ。
そして、暗殺者自身の突進力に、幸隆自身の体重の移動をほんのわずかに乗せ、捻り上げる。
合気道の基本にして奥義、『小手返し』。
「ガァアアアアアッ!?」
ボキィッ! という鈍い音と共に、暗殺者の手首が不自然な方向に折れ曲がる。
短刀が床に転がり落ちた。
激痛で完全にパニックになり、その場に崩れ落ちようとする暗殺者の襟首を、幸隆は冷酷に掴み上げる。
そのまま足を払い、ドサァッ! と床にうつ伏せに叩きつけた。
一瞬の出来事だった。
タバコの灰が床に落ちるよりも早く、刃物を持った凶悪な暗殺者は、華族の当主によって床に這いつくばらされ、完全に制圧されていた。
「ひっ……あ、あああ……!」
手首を破壊され、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして呻く暗殺者。
「命を狙うなら、もう少しマシな駒を使え。これでは欠伸も出ん」
幸隆は、暗殺者の背中を革靴で冷酷に踏みつけながら、短くなったチェリーの煙をゆっくりと吹きかけた。
その冷酷すぎる横顔を見て、部屋の入り口でへたり込んでいた秘書官は、恐怖と畏敬のあまりガチガチと歯を鳴らした。
(あれが……本当にあの、争い事を避けてばかりいた公爵閣下なのか……!?)
その時である。
床に組み伏せられた暗殺者の懐から、ゴトリ、と重たい金属の塊がこぼれ落ちた。
「……ほう」
幸隆の目が、猛禽類のように鋭く細められる。
それは、日本陸軍が将校用に配備している制式拳銃――『十四年式拳銃』だった。
「なるほど。ただの狂った暴漢ではなく、ちゃんと『背後関係』があるわけだ」
幸隆は、床に落ちた拳銃を拾い上げると、ニヤリと極悪な笑みを浮かべた。




