EP 6
白米と笑顔――これが俺の政治だ
昭和13年(1938年)春。
帝都・東京の下町にある、小さな大衆食堂。
昼時の店内は、むせ返るような熱気と、ソースの焦げる香ばしい匂い、そして割れんばかりの活気と笑い声に包まれていた。
「おやじ! こっち、カツ丼大盛り一丁! あと、豚汁もつけてくれ!」
「おう! 景気がいいねえ、建さん!」
油まみれの作業着を着た若い工員が、顔をほころばせながらカウンターに陣取る。
彼は、本田宗一郎が指揮するエンジンの下請け町工場で働く青年だった。
「当たり前よ! 先月から給料が倍になったんだ! しかも、明日の日曜日は休みときた! 帰りに三越で、お袋に新しいラジオを買って帰るんだ!」
「そいつはすげえや! うちの店も、最近じゃ昼間っからみんなカツ丼や天丼をガンガン頼んでくれるから、毎日仕込みが追いつかなくて嬉しい悲鳴だよ!」
食堂の親父が、汗を拭いながら満面の笑みでカツを揚げる。
その隣のテーブルでは、東北から出稼ぎに来ていると思しき日に焼けた農夫たちが、熱燗を傾けながら泣き笑いしていた。
「……信じられねえよ。国からの農業補助金で、村にトラクター(耕運機)が来たんだ。それに、帝都のみんなが腹一杯メシを食ってくれるおかげで、俺たちの作った米や野菜が、信じられない高値で飛ぶように売れていく」
農夫の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「借金が、全部返せたんだ……。末っ子のサチを、遊郭に身売りに出さなくて済んだ。あいつ、春から女学校に行けるんだぞ……ッ!」
「よかったなぁ、本当によかったなぁ……!」
日本中が、地獄のような大恐慌のどん底から這い上がり、空前の好景気(内需の爆発)に沸き立っていた。
一部の財閥から搾り取った富を、労働者と農村へ強制的に再分配する「令和の労働基準法」と「徹底したインフラ投資」。
幸隆が強権を発動して敷いたレールは、確実に、そして劇的に、名もなき庶民たちの人生を救済していたのだ。
◆
「……まったく。庶民の熱気というのは、葉巻の味が分からなくなって困りますな」
その食堂の片隅。
一番目立たない奥のテーブルで、労働者のような古びたハンチング帽とヨレヨレの外套で変装した二人の男が、ひっそりと向かい合っていた。
外務大臣の吉田茂と、内閣総理大臣・近衛文麿(若林幸隆)である。
護衛の特務憲兵たちは、店の外で目立たないように周囲を固めている。
「文句を言うな、吉田。お前もたまには、こういう泥臭い飯を食って世間の空気を知れ」
幸隆は、運ばれてきた山盛りの白いご飯と、分厚いトンカツを割り箸で器用に挟み、ソースをたっぷりとつけて口に放り込んだ。
サクッ、という小気味良い音とともに、豚肉の脂の甘みが口いっぱいに広がる。
「……美味い」
幸隆は三白眼をわずかに細め、心底美味そうに白米をかき込んだ。
「総理。貴方という人は、本当に底が知れませんな」
吉田は、安物のタバコを灰皿に押し付けながら、周囲の熱狂をぐるりと見渡した。
「軍部を騙し、財閥を脅し上げ、ヒトラーをペテンにかけた極悪人が……こんな安食堂で、美味そうにトンカツを食っている。貴方がやったことは、事実上の『社会主義革命』に近い。……なぜ、ここまで庶民の懐を温めることにこだわるのですか?」
吉田の問いに、幸隆は箸を止め、味噌汁をズズッとすすった。
「吉田。俺はイデオロギー(思想)なんてどうでもいいんだ」
幸隆は、ハンチング帽のツバを少し上げ、カツ丼を頬張って笑い合う工員や、涙を流して喜ぶ農夫たちの姿を静かに見つめた。
「戦争で領土を広げても、国民の腹は膨れない。財閥が金庫に札束を詰め込んでも、国は豊かにならない。……政治家の仕事ってのはな、思想を語ることじゃない。この『白米と笑顔』を、一人でも多くの国民に配ることだ」
それは、権力闘争の鬼である幸隆の奥底にある、現代の政治家としてのたった一つの「矜持」だった。
「国民全員が腹一杯メシを食い、休日に家族と笑い合い、子供が学校に行ける。……これ以上の『最強の国家』が、世界のどこにある?」
幸隆のその言葉に、吉田茂は息を呑み、やがて、深く、深く頭を下げた。
「……恐れ入りました。貴方はやはり、この大日本帝國に降り立った、本物の『救世主』なのかもしれない」
「よせ。カツの味が落ちる」
幸隆は照れ隠しのように鼻で笑うと、食後のハイライトを口にくわえ、シュボッとマッチを擦った。
「だが、吉田。喜ぶのはここまでだ。俺たちが国内で内需を爆発させ、力を蓄えれば蓄えるほど……海の向こうの『本物のバケモノ』が、警戒レベルを跳ね上げる」
紫煙の向こう側。幸隆の視線は、食堂の壁を抜け、はるか太平洋の彼方を見据えていた。
「アメリカ合衆国大統領、フランクリン・ルーズベルト。……あいつは、ドイツのチョビ髭なんかよりよっぽどタチの悪い、超一級の合理主義者だ。そろそろ、強烈な『嫌がらせ』を仕掛けてくる頃だぞ」
大日本帝國の「一億総中流化」という奇跡の裏で。
ついに、眠れる超大国・アメリカが、極東の小さな島国の「異常な成長」を危険視し、重い腰を上げようとしていた。




