EP 10
最悪の詐欺条約――そして帝國は技術大国となる(第三章完)
昭和12年(1937年)。
首相官邸の特別応接室。
ナチス・ドイツ特使の顔には、安堵と屈辱の入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
アメリカの巨大資本(経済の盾)と、ソ連の暗号回線(二正面作戦の脅威)。二つの致命的な急所を突きつけられた特使は、中国への武器供与を全面停止し、日本側の用意した新たな「条約案」に震える手でサインを済ませたところだった。
『日独技術・情報交換および極東平和維持に関する基本協定』。
「……近衛総理。これで我が第三帝国と大日本帝國は、固い絆で結ばれました。ソ連を東西から挟み撃ちにする、偉大なる同盟の成立です」
特使は、無理に口角を上げて握手を求めた。
「ああ。よろしく頼むよ、特使殿。お互い、血を流さずに世界を平和にしようじゃないか」
幸隆は三白眼を細め、極めて事務的にその手を握り返した。
外務大臣の吉田茂が、葉巻をくわえたまま、署名されたばかりの協定書を満足げに金庫へと収める。
特使が退室し、重厚な扉が閉まった瞬間。
吉田は、こらえきれないといった様子で腹を抱え、悪役そのものの高笑いを響かせた。
「ガッハッハッハ! いやはや、総理! 貴方という人は、本当に血も涙もない悪魔だ! あのゲルマンの傲慢な特使殿は、自分がサインした紙切れが『史上最悪の詐欺契約書』だということに、一ミリも気づいておりませんぞ!」
「詐欺とは人聞きが悪い。合法的かつ、極めて近代的な『非対称条約』と言ってくれ」
幸隆はソファに座り直し、特使の残していったドイツ製最高級万年筆を指先で弄んだ。
史実の『日独伊三国同盟』は、一国が攻撃されれば自動的に他国も参戦義務を負うという、日本にとって何一つメリットのない最悪の「心中条約」だった。
だが、幸隆が現代の国際弁護士の知識を総動員して書き上げたこの協定書は、全く次元が違う。
第一項には『ドイツは日本の工業近代化のため、クルップ社の最新工作機械群、メッサーシュミットの航空機設計図、および人造石油の精製技術を無償かつ無制限に提供する』と明記されている。
そして、ドイツ側が最も期待している「日本の軍事参戦義務」については、協定書の第六項に、極めて難解で回りくどい法律用語でこう記されていた。
『大日本帝國は、同盟国が他国から不当な侵略を受けた場合、極東の平和と大東亜の経済基盤(アメリカ資本を含む)に著しい損害を与えないと帝国議会が全会一致で認めた場合に限り、軍事的な支援を検討する用意がある』
「……『検討する用意がある』。しかも『議会の全会一致』が条件。要するに『日本は絶対に戦争には参加しない』と同義ですな」
吉田茂が、協定書の写しを読み上げながら愉快そうに葉巻の灰を落とす。
「その通りだ。ドイツがヨーロッパで火の海になろうが、ソ連と泥沼の戦争を始めようが、我が国は『遺憾の意』を表明しながら、特等席で見物させてもらう」
幸隆は、ニヤリと極悪な笑みを浮かべた。
「俺は最初から、ヨーロッパの殺し合いに付き合う気など毛頭ない。ドイツからは最新の科学技術と工作機械だけを合法的にしゃぶり尽くし、用済みになったら捨てる。……それが、この協定の真実だ」
◆
それから一年後。
ドイツ・ベルリン。総統地下壕。
「Nein! Nein! Nein!! あの極東の詐欺師どもめェェェッ!!」
アドルフ・ヒトラーの絶叫が、分厚いコンクリートの壁に木霊していた。
「総統閣下! 日本政府から公式な声明が! 『我が国はヨーロッパの紛争において、厳正なる中立を維持する。協定に基づく技術交流は引き続き希望する』とのことです!」
外務大臣のリッベントロップが、青ざめた顔で報告する。
「ふざけるなッ! 我々はすでに、一級品の工作機械やUボートの設計図、ジェットエンジンの基礎理論までくれてやったのだぞ! なぜ奴らは、シベリアからソ連を攻撃しないのだ!!」
ヒトラーは机の上の書類をめちゃくちゃに薙ぎ払い、泡を吹いて激怒した。
彼らはようやく気づいたのだ。日本が差し出してきたのは「同盟」という名の甘い毒であり、ドイツはただ一方的に技術と財産を吸い上げられるだけの「カモ」に過ぎなかったということに。
だが、協定書にははっきりと日本の「非参戦」を正当化するロジックが組み込まれており、国際法上、ドイツは日本を非難するいかなる根拠も持っていなかった。
「近衛文麿ォォォッ!! あの悪魔めェェェッ!!」
ヨーロッパの覇王となるはずだった男の絶望の叫びは、極東の島国には決して届くことはなかった。
◆
同じ頃。東京、首相官邸。
「総理。ハンブルク港から出港した輸送船団が、無事に神戸港へ入港しました。積載されているのは、ドイツから『提供』された最新鋭の大型プレス機、航空機用エンジンの設計図、そして光学兵器の数々です」
結城秘書官が、興奮冷めやらぬ声で目録を読み上げる。
「上出来だ。これらをすぐに民間の財閥と海軍工廠へ回し、徹底的にリバースエンジニアリング(解析・模倣)させろ。……半年でドイツの技術に追いつき、三年で追い抜け」
幸隆は、執務室の窓辺に立ち、特注の強いタバコ(のちのハイライトに近いブレンド)をふうっと深く吸い込んだ。
史実において、日本は技術力と物量の圧倒的な差によって敗北した。
だが今、大日本帝國は一発の銃弾も撃つことなく、世界最先端の技術をまるごと手に入れたのだ。
アメリカの資本で経済を潤し、ドイツの技術で工業力を底上げする。もはや、この国を力でねじ伏せられる国は、地球上のどこにも存在しない。
「軍部の老害は掃除した。狂った天才も黙らせた。そして、列強の怪物どもは完全に俺の盤面の上だ」
幸隆は、窓ガラスに映る「近衛文麿」の顔を見つめ、不敵に、そして力強く笑った。
「さあ、ここからは完全なボーナスタイムだ。……この大日本帝國を、ぶっちぎりの世界一にしてやる」
最強の与党幹事長による、血の流れない世界征服。
極悪にして痛快なるその歩みは、まだ始まったばかりである。
【第三章・完】




