EP 9
悪党たちのカウンター外交――盤上の恐喝
昭和12年(1937年)春。
首相官邸の特別応接室には、重苦しい、いや、一方的な暴力の気配が満ちていた。
「……これが、我が偉大なる総統閣下からの『最終回答』である!」
ナチス・ドイツの特使が、傲慢な態度で一枚の覚書をテーブルに叩きつけた。
そこには、日独防共協定を結ばない場合、ドイツ軍事顧問団を増派し、最新鋭の戦車と火砲を中国国民党(蒋介石)に無制限供与する旨が、露骨な脅迫として記されていた。
「近衛総理! 我々の最新兵器を持った中国軍が満州国境に殺到すれば、大日本帝國は大陸で血の海に沈むことになる! さあ、今すぐこの同盟書にサインを……」
「……吉田。お前、ドイツ語のヒアリングは得意だったか?」
特使の唾を飛ばすような熱弁を完全に無視し、幸隆は隣に座る外務大臣の吉田茂に気怠そうに尋ねた。
「ええ、一応は。しかし総理、この特使殿は少々声が大きすぎますな。葉巻の味が落ちる」
吉田はふてぶてしく紫煙を吐き出し、特使をゴミでも見るような目で見返した。
「き、貴様ら……ッ!! 大ドイツ帝国の最後通牒を愚弄するか!」
「愚弄なんかしていないさ。ただ、お前たちの『脅し』が、あまりにも三流すぎて欠伸が出そうになっているだけだ」
幸隆はコーヒーカップを置き、ゆっくりと特使に向き直った。
「中国に武器を売りつけるだと? 好きにすればいい。だがな、特使殿。……今、満州の鉄道や工場の半分は『誰のもの』か、ベルリンのチョビ髭野郎は理解しているのか?」
「な、何を……」
「アメリカのロックフェラーとフォードだよ。……もし、お前たちが供与した大砲の弾が、満州にあるアメリカの資産(工場)に一発でも着弾したらどうなると思う?」
幸隆の三白眼が、冷酷な光を放つ。
「アメリカの巨大資本(ウォール街)が激怒する。ルーズベルト大統領はそれを大義名分にして、大西洋でドイツへの経済制裁、あるいは軍事介入に踏み切るだろう。……お前たちは、中国に武器を売ったせいで、あの『超大国アメリカ』を完全に敵に回すことになるんだぞ」
特使の顔から、スッと血の気が引いた。
当時のドイツにとって、まだ軍備が整いきっていないアメリカを刺激することは、何よりも避けるべき事態だった。
「そ、それは……アメリカ資本の施設を避けて攻撃するように指導すれば……」
「戦争でそんな器用な真似ができるか、馬鹿野郎」
幸隆は容赦なく一刀両断にする。
「それに、俺の手札はそれだけじゃない。……吉田」
「はっ」
吉田茂は、懐から数枚の書類を取り出し、特使の目の前に滑らせた。
そこには、見慣れないロシア語の暗号配列と、モスクワへの通信記録のコピーが記されていた。
「こ、これは……ソ連の暗号表!? なぜ日本がこれを……!」
「先日、帝都で摘発した天才スパイ・ゾルゲから没収した直通回線だ。お前たちが最も恐れている北のヒグマ(スターリン)へのな」
幸隆は、椅子に深く腰掛け、両手で顔の前に三角形を作った。
「なあ、特使殿。もし俺が、この暗号を使ってスターリンに『ドイツ軍がポーランド侵攻の準備をしている』とか、『ドイツの内部にソ連の協力者がいる』という精巧な偽情報を流し続けたら、どうなると思う?」
「あ……ああ……」
「猜疑心の塊であるスターリンは発狂し、お前たちの東側の国境線に何百万という赤軍を張り付かせるだろうよ。……西の英仏と睨み合いながら、東のソ連とも対峙する。お前たちが一番恐れている『二正面作戦』の完成だ」
それは、軍事大国ドイツの喉元に突きつけられた、見えない巨大な刃だった。
「アメリカ資本の盾」と「ソ連の暗号回線」。
この二つの手札を突きつけられた瞬間、特使は自分が脅迫者ではなく、完全に「人質」にされていることを悟った。
「ひっ……!」
特使の額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。
目の前に座っている日本の総理大臣は、ただの貴族ではない。世界のパワーバランスを指先一つで弄ぶ、とてつもない『悪魔』だ。
「わ、わかった! 中国への武器供与は直ちに停止させる! だから、アメリカやソ連を刺激するような真似は……!!」
完全に心が折れ、哀願するような声に変わる特使。
「クックック……。おやおや、随分と聞き分けが良くなりましたな、特使殿」
吉田茂が、悪人面を全開にして喉の奥で笑った。
「勘違いするな。タダで許してやるわけじゃない」
幸隆は、デスクの引き出しから分厚いファイルの束を取り出した。
「お前たちが不用意に俺に喧嘩を売った『慰謝料』を払ってもらう。……ここからは、極上のビジネス(詐欺)の時間だ」
ヨーロッパの怪物を、さらに上位の悪辣なロジックで完全に屈服させた幸隆。
大日本帝國を世界一の技術大国へと押し上げる「最悪の条約」の締結が、今、始まろうとしていた。




