EP 7
怪物の証明と、絶望の数学(vs 石原莞爾)
昭和11年12月。
雪の舞う首相官邸の廊下は、むせ返るような血と硝煙の匂いに包まれていた。
「……残り、十四人。弾倉の節約にはなったな」
幸隆は、返り血で赤黒く染まったワイシャツの袖をまくり直しながら、足元で完全に沈黙したテロリストの群れを一瞥した。
実戦合気道による関節破壊と、奪った銃火器での至近距離射撃(CQC)。
ものの数十分で、海軍の過激派と右翼テロリストの混成部隊は、たった一人の「怪物」の手によって全滅させられていた。
パチ、パチ、パチ。
不意に、暗がりから場違いな拍手の音が響いた。
「……素晴らしい。やはり貴方は、私の見込んだ通りの『本物』だ」
死体の山をゆっくりとまたぎ、軍服姿の男が現れる。
テロの首謀者にして、帝国陸軍随一の天才・石原莞爾大佐だった。彼は自分の手駒が全滅したというのに、一切の動揺を見せず、むしろ恍惚とした表情で幸隆を見つめていた。
「このテロは、貴方の『底』を測るための試金石でした。これほどの武力と、非情なる決断力。……近衛総理、いや、名も知らぬ怪物よ。貴方こそ、やがて来る『最終戦争』において、この大日本帝國を率いるに相応しい指導者だ!」
石原は両手を広げ、狂気を孕んだ瞳で熱弁を振るう。
「西洋の個人主義と、東洋の王道。この二つの文明は、いずれ必ず激突する! 私はその最終戦争のために、満州を確保し、高度国防国家を建設しようとしてきた。貴方のその冷徹な頭脳と力があれば、我々はアメリカを打ち破り、世界を統一できる!」
「……長々とご苦労なこった」
幸隆は、血に濡れた手でポケットからハイライトを取り出し、口にくわえて火を点けた。
紫煙が、石原の狂気を冷たく遮る。
「石原。お前は確かに天才だ。当時の軍人の中じゃ、唯一『世界規模のビジョン』を持っていた。……だがな、お前のその『最終戦争論』とやらは、致命的に数学的根拠が欠けている」
「数学的根拠、だと?」
「そうだ。ただの妄想だ」
幸隆は、手の中の空になった拳銃を、石原の足元へガランと放り投げた。
「お前はアメリカと戦って勝つ気でいるようだが、工業生産力の差を計算したことがあるか? 奴らは本気を出せば、一週間で空母を一隻造り、一日で数十機の大型爆撃機をロールアウトさせる。鉄の量も、石油の量も、我が国の数十倍だ」
「精神力と、必殺の戦術があれば……!」
「戦術で覆せるのは、せいぜい三倍の戦力差までだ。数十倍の圧倒的な物量の前には、いかなる天才の戦術も無意味にすり潰される。……だが、俺が言いたい絶望はそんな生易しいものじゃない」
幸隆の三白眼が、石原の魂の奥底までを見透かすように細められた。
「お前は『最終戦争』と言ったな。……教えてやろう。お前が夢見ているその戦争の結末には、兵士同士の美しい名誉ある戦いなど存在しない。あるのは、ただの『物理学による一方的な虐殺』だ」
石原の顔から、少しずつ笑みが消え始める。
「数年後、アメリカの空を埋め尽くす超大型爆撃機(B-29)の編隊が、帝都の空を覆う。彼らは高高度から、雨あられのように焼夷弾を降らせる。木と紙でできた日本の家屋は一瞬で火の海になり、一夜にして十万人以上の民間人が焼け死ぬ」
「な……十万、だと……?」
「それだけじゃない。アメリカの科学者たちは、ウランやプルトニウムといった原子の核分裂を利用して、とてつもないエネルギーを生み出す『新型爆弾』を完成させる。たった一発。たった一発の爆弾が上空で閃光を放った瞬間、一つの巨大な都市が、何十万人という人間ごと、一瞬にして蒸発し、灰になる」
「あ、あり得ない! そんな悪魔のような兵器が……!!」
「事実だ。お前は歴史(数学)を舐めている。お前の言う最終戦争の行き着く先は、帝國の勝利なんかじゃない。数百万の国民の死骸と、焼け野原と、二つの巨大な『キノコ雲』だ」
幸隆から放たれる、あまりにもリアルで、圧倒的な未来の絶望。
それは、実際にその歴史の爪痕を知る「現代の政治家」にしか語れない、血を吐くような真実の重みを持っていた。
「お前の立てた戦略は、すべて盤面の『前提』が間違っている。原子の火の前では、大和魂も高度国防国家も、ただの紙屑だ」
幸隆は、完全に言葉を失い、顔面を蒼白にして震える石原に歩み寄った。
そして、その肩をポンと叩き、耳元で冷酷に囁いた。
「天才の夢想で、俺の国の国民を殺すな。……お前の時代は、ここで終わりだ」
「あ……ああ……」
帝国陸軍一の天才の脳内で、これまで自分が組み上げてきた完璧な「最終戦争」の数式が、幸隆の提示した「核物理学」と「圧倒的物量」という定数の前に、音を立てて崩れ去っていく。
勝てない。どう足掻いても、自分の思い描いた戦争では、日本は滅びるしかない。
石原の心は、完全にへし折られた。
彼はその場に膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って、子供のように震え始めた。
「結城」
幸隆が声をかけると、物陰から青ざめた顔の結城と吉田茂が這い出してきた。
「警察と、東條の憲兵隊を呼べ。首謀者の石原莞爾は、すでに戦意を喪失している。……予備役へ叩き込み、二度と表舞台には出させるな」
「は、ははっ……!!」
血塗られた官邸の廊下で、ハイライトの煙をふかす幸隆。
武力によるテロリストの殲滅と、論理(数学)による天才の精神破壊。
この夜、近衛総理の中枢にいる怪物の真の恐ろしさを、歴史は深く刻み込むこととなった。




