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EP 4

甘い誘惑と、帝都のピアノ――レイシズム(差別)は金にならない

昭和11年、冬。

帝都・東京は、新たな熱狂の渦に包まれていた。

「総理。連日、日比谷公園や銀座の目抜き通りで、提灯行列が行われております。『強国ドイツと手を結び、ソ連の脅威に対抗せよ』と。……世論は完全に、ナチス・ドイツとの『日独防共協定』締結に沸き立っておりますぞ」

外務大臣の吉田茂が、窓の外の喧騒を苦々しげに見下ろしながら葉巻をふかした。

ナチス・ドイツが放った華々しいプロパガンダと、ゲルマン民族の圧倒的な軍事パレードの映像は、当時の日本国民のナショナリズムを強烈に刺激していた。

「新聞各社も『日独伊の枢軸こそが世界の新秩序』と書き立てておる始末。……厄介なことになりましたな」

国民バカはいつの時代も、派手なポピュリズムに騙される」

幸隆は、執務室のソファで深くため息をついた。

史実を知る幸隆にとって、ナチス・ドイツと組むことは「国家の完全なる自殺行為」だ。彼らは最終的に世界中を敵に回して焼け野原になる、史上最悪の『疫病神』である。

だが、石原莞爾が指摘した通り、ここで正面からドイツとの同盟を拒否すれば、国民の熱狂は反政府暴動へと発展しかねない。

「吉田。明日の夜、首相官邸のホールで、ドイツの特使を招いた歓迎の晩餐会を開く。……極上の『エンターテインメント』を用意してやる」

幸隆の三白眼が、極悪な政治家の光を放った。

   ◆

翌日の夜。首相官邸のグランドホール。

煌びやかなシャンデリアの下、ナチス・ドイツからの特使団が、傲慢な態度でシャンパングラスを傾けていた。彼らは、日本が自分たちからの同盟の誘いにひれ伏すと信じて疑っていない。

「近衛総理。我が偉大なる第三帝国と大日本帝國が結べば、ユーラシア大陸を東西から支配することができます。アーリア人と大和民族という、世界で最も優秀な血統による新秩序です」

ナチスの特使が、通訳を介して芝居がかった声で語りかける。

「優秀な血統、ね……」

幸隆はグラスを揺らし、フッと嘲笑した。

「大使。ビジネスにおいて最も不要なものが何か、知っているか? ……『イデオロギー』と『血統』だよ。カネを稼ぐのに、鼻の高さや目の色は関係ない」

「……何をご冗談を」

その時、ホールの照明がふっと落ち、中央に置かれたグランドピアノにスポットライトが当たった。

そこに座っていたのは、初老の白人男性だった。

「今宵は、我が大日本帝國が世界に誇る最高のピアニストを招いた。東京音楽学校教授、レオ・シロタ氏だ。……どうぞ」

幸隆が合図をすると、シロタの指が鍵盤の上を滑り出した。

ショパンの『英雄ポロネーズ』。

力強く、それでいて繊細で、魂を揺さぶるような圧倒的な演奏。ホールにいた各国の外交官たちが、一瞬でその音色の虜になり、息を呑む。

だが、ドイツ特使団の顔色だけが、みるみるうちに紫色の怒りに染まっていった。

「こ、近衛総理……!! な、何のつもりだッ!!」

特使がワイングラスを卓に叩きつける。

「その男はユダヤ人だ! 我々第三帝国が最も忌み嫌う、劣等民族の豚ではないか! なぜ、我々の歓迎の席にこんな男をッ!!」

怒号がホールに響き渡る。

だが、ピアノの音色は止まらない。レオ・シロタは、祖国を追われた同胞の悲しみを跳ね返すように、堂々と、美しく鍵盤を叩き続けている。

その傍らでは、シロタの娘である13歳の少女――のちのベアテ・シロタ・ゴードンが、父親の誇り高い背中を、まっすぐな瞳で見つめていた。

「おい。音楽の邪魔をするな、三流」

幸隆の低く、絶対零度の声が、ドイツ特使の怒号を冷酷に切り裂いた。

「ここは俺の国だ。大日本帝國は、能力のある人間に敬意を払い、相応の対価カネを支払う。国籍や血統で才能を焼き捨てるような、非合理で儲からない『馬鹿な真似』はしない」

「き、貴様ッ! 総統閣下を、我が第三帝国の政策を愚弄するかッ!!」

「愚弄しているんじゃない。事実を言っている」

幸隆はゆっくりと立ち上がり、特使を見下ろした。

「優秀な科学者や芸術家を、人種が違うというだけで国から追い出すような国家に、未来はない。……お前たちの言う『新秩序』とやらは、我が国のビジネスモデルには合わないと言っているんだ」

幸隆は、特使の顔にハイライトの紫煙をふうっと吹きかけた。

「同盟の話は、白紙だ。……ドイツの誇る工業力マシンには興味があるが、お前たちのその『貧乏くさいレイシズム(差別主義)』には、一円の価値もないからな」

演奏がフィナーレを迎え、ホールは割れんばかりの拍手に包まれた。

顔を真っ赤にして立ち尽くすナチスの特使たちを尻目に、幸隆と吉田茂は、シロタ親子に歩み寄り、笑顔で乾杯のグラスを掲げた。

「素晴らしい演奏だった。これからも、この日本で最高の音楽を奏でてくれ」

幸隆が声をかけると、シロタは深く頭を下げ、傍らのベアテも少しはにかみながら綺麗なカーテシー(お辞儀)を見せた。

ナチス・ドイツの狂気を、極上のピアノの音色と「現代の冷徹な合理主義」で完膚なきまでに叩き潰した夜。

しかし、この明確な「拒絶」は、ドイツと結託して幸隆の失脚を狙う天才・石原莞爾に、最大の『攻撃の大義名分』を与えることになってしまった。

総理官邸の屋根に、不穏な雪が降り始めようとしていた。

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