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EP 10

歴史の分岐点と、冷徹なる経済指標(第二章完)

昭和11年秋。

東京、帝国ホテル。

無数のフラッシュが焚かれる中、日・米・中の代表団が、歴史的な文書に万年筆で署名を行っていた。

『極東新秩序および合弁事業に関する包括協定』。

満州の権益をアメリカ資本に開放する代わりに、日本に対する一切の経済制裁を禁じ、さらに中国大陸への莫大なインフラ投資を三国共同で行うという、世界地図のパワーバランスを根本から覆す条約だった。

軍部による「血みどろの領土拡大」という破滅のルートは、ここに完全に消滅した。

世界中が、彗星のごとく現れた日本の若き宰相・近衛文麿の「血を流さぬ征服」に驚愕し、喝采を送っていた。

   ◆

数日後。首相官邸、総理執務室。

「……結構なお点前で」

「ふむ。少し湯の温度が高かったか」

静寂に包まれた部屋の中。幸隆は、いつものハイライトとコーヒーではなく、端正な手つきで茶筅ちゃせんを振り、点てたばかりの抹茶を静かに味わっていた。

静謐せいひつ茶道さどうの所作。それは、血で血を洗う派閥闘争を勝ち抜いてきた幸隆が、極限まで己の精神を研ぎ澄まし、盤面を俯瞰するために身につけた「静」のルーティンだった。

秘書官の結城が、信じられないものを見るような目で控えている。

「総理が、お茶を……。いつもはブラックコーヒーばかりでしたのに」

「コーヒーはいくさの前のガソリンだ。だが、本当に国の未来の数字データを見極める時は、茶の苦味で頭の芯を冷やすに限る」

幸隆が茶碗を静かに置いた、その時である。

ノックの音と共に、大蔵省の木崎局長が分厚い決裁書類を抱えて入室してきた。

「総理! 朗報であります! アメリカ資本の流入と軍事費の削減により、我が国の経済指標は劇的な回復を見せております! 国民総生産の伸び率も右肩上がりです!」

木崎は興奮した面持ちで、書類をデスクに広げた。

「この好景気を背景に、次期国会で『新たな間接税(後の消費税に類する広く薄い課税)』を導入し、それを財源として一気に国内のインフラ整備を進める法案を……」

「却下だ」

幸隆の低く、絶対零度の声が執務室に響いた。

木崎の顔から、スッと笑顔が消える。

「……え? し、しかし総理。数字は明確に好景気を示しておりまして……」

「木崎。お前たち大蔵省の悪い癖だ。表面的な『マクロ経済の指標』だけで、国が豊かになったと錯覚している」

幸隆は立ち上がり、木崎の突き出した書類をゴミでも見るように一瞥した。

「一部の財閥や大企業がアメリカとの取引で潤い、数字上の生産が伸びているだけだ。末端の農村や、工場で働く一般大衆の懐(実体経済)は、まだ一厘も温まっていない。……違うか?」

「そ、それは……確かに、末端への波及にはまだ時間が……」

「その状態で、大衆の『消費』そのものに罰金を科すような間接税(消費増税)を導入すればどうなる? 大衆は財布の紐を固く締め、国内の需要は完全に凍りつく。経済指標の数字遊びに騙されて、自らの手で景気の首を絞める気か」

幸隆の三白眼が、大蔵官僚の浅はかな机上の空論を冷酷に射抜く。

現代の日本で、誤った税制と経済指標の読み違えが、どれほど国を停滞の泥沼に引きずり込んだか。幸隆はそれを特等席(与党幹事長)で嫌というほど見てきたのだ。

「いいか。間接税の導入案は即刻シュレッダーにかけろ。財源が欲しいなら、新設した日米合弁会社の『莫大な配当金』を特別会計に組み込め。そして、特需で不当に儲けている財閥からピンポイントで絞り取れ。……飢えている国民から一銭たりともむしり取るな」

「は、ははっ!! 浅慮でございました……!!」

木崎は滝のような冷や汗を流し、深々と頭を下げて逃げるように退室していった。

「……やれやれ。軍部の馬鹿を掃除したと思ったら、今度は数字の読めない官僚の尻拭いか」

幸隆は呆れたように息を吐き、茶碗の横に置いてあったハイライトを口にくわえた。

シュボッ、とマッチの火が点り、紫煙が立ち上る。

「まあいい。外の憂いは消えた。ここからは、この大日本帝國を根本から造り変える『内政』の時間だ」

窓の外には、抜けるような秋晴れの帝都の空が広がっている。

世界大戦という滅びの運命をねじ伏せた最強の内閣総理大臣は、次なる「国内の敵(古いシステム)」を完膚なきまでに叩き潰すため、極悪で、そして頼もしい笑みを浮かべた。

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