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EP 9

荻外荘の晩餐会と、金曜日のカレー

それから数週間後。金曜日の夜。

東京・荻窪にある近衛家の別邸『荻外荘てきがいそう』には、黒塗りの高級車が次々と乗り付けていた。

招かれたのは、駐日アメリカ大使のグルー、イギリス大使のクレイギー、そして中国国民党の特使など、極東の運命を握る列強の代表たちである。

「近衛総理……本日の晩餐会、フランス料理のフルコースかと思いきや、随分とスパイシーな香りがしますな」

アメリカ大使のグルーが、鼻をヒクつかせながら尋ねた。

荻外荘のダイニングルームを満たしていたのは、高級なワインの香りではない。食欲を暴力的なまでに刺激する、複雑なスパイスの香りだった。

「ようこそ、大使諸氏。我が内閣では、金曜日の夜はこれを食べると決まっているのだ」

幸隆が合図をすると、純白の制服を着た料理長が、銀製の巨大なチューリン(蓋付きスープ鉢)をうやうやしく運び込んできた。

「大日本帝國海軍が誇る、最高傑作。『金曜カレー』だ。ただし、俺の専属シェフに作らせた特別製だがね」

列強の外交官たちの前に、美しく盛り付けられたカレーライスが供される。

最高級の和牛がとろけるまで煮込まれた、漆黒に近いルー。だが、幸隆が最もこだわったのはそこではない。

「……おお。これは、素晴らしい」

イギリス大使がスプーンを口に運び、目を丸くした。

「具材のジャガイモが、ルーの強いスパイスにまったく負けていません。塩茹でなどで余計な味付けをせず、素材そのものの素朴な甘みと、大地の香りが極限まで引き出されている……。この自然な味わいが、濃厚なルーと完璧な調和を生み出している!」

「お気に召して光栄だ」

幸隆は、自身のカレーをゆっくりと味わいながら不敵に微笑んだ。

素材本来の味を殺すような過剰な塩気(味付け)は三流の証だ。このポテトの自然な甘みこそが、最高級のスパイスの海の中で確かな存在感を放ち、全体のバランスを完成させる。

「さて、腹が満たされたところで本題に入ろうか」

幸隆はスプーンを置き、食後のコーヒーに手を伸ばした。

「アメリカの資本と、日本の技術。そして中国大陸という巨大な市場。……この三者が結びついた『新・極東経済圏』の設立合意書だ。すでに蒋介石氏のサインはもらっている」

幸隆の言葉に、各国の特使たちは息を呑んだ。

美味しいカレーで完全に胃袋と警戒心を解かれた直後に突きつけられた、世界地図を塗り替えるほどの巨大なビジネスの提案。

もはや、そこに武力衝突(戦争)の入り込む余地は一ミリたりともなかった。

「……近衛総理。貴方の描く盤面ボードには、我々すらも最初から組み込まれていたというわけですか」

グルー大使が、降参したように苦笑いを浮かべる。

「世界を平和にするのは、銃やイデオロギーじゃない。美味い飯と、巨大な利益カネだ。……違うか?」

最強の政治家の言葉に、列強の特使たちはただ圧倒され、黙って頷くことしかできなかった。

昭和11年、夏。

一発の銃弾も撃つことなく、大日本帝國は世界の覇権国としての確固たる地位を築き上げたのである。

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