EP 8
大東亜の「再定義」――銃弾の代わりにカネを撃て
昭和11年6月。
大陸での軍部の独断専行を、東條英機の冷酷な粛清によって完全に粉砕した近衛内閣。
次なる標的は、泥沼の戦争の相手となるはずだった中国国民党のトップ、蒋介石であった。
「総理。国民党の特使が極秘裏に帝都入りしました。軍の強硬派が消えた今、彼らも日本との『全面戦争』は避けたいというのが本音のようです」
首相官邸の執務室。
外務大臣の吉田茂が、葉巻の煙を燻らせながら不敵な笑みを浮かべて報告する。
幸隆は、デスクに広げた東アジアの巨大な地図を見下ろした。
「軍部どもは、武力で領土を奪うことしか頭になかった。だが、四億の人口を抱える大陸を武力で制圧し続けるなど、兵站の観点から見て絶対に不可能だ」
幸隆は、地図上の主要都市に次々とチェスの駒を置いていく。
「吉田。蒋介石にこう伝えろ。『我が大日本帝國は、中国大陸の領土的野心を完全に放棄する』とな」
「……ほう? それだけではありますまい?」
「当然だ。領土は奪わん。だが、中国の『首輪』は俺が握る」
幸隆の三白眼が、冷酷な政治家の光を帯びる。
「中国のインフラ、鉄道網、ダム建設、そして大規模な農業開発。これらすべてに、大日本帝國から莫大な『借款』と『技術支援』を行うと申し出ろ。アメリカから引っ張ってきた資本も惜しみなくつぎ込む」
「……なるほど。銃弾の代わりに、カネと技術を撃ち込むわけですな」
歴戦の外交官である吉田は、幸隆の恐るべき意図を即座に理解し、喉の奥で笑った。
「武力で脅せば反発し、ゲリラになる。だが、日本の技術とカネで作られたインフラに一度依存させてしまえば、彼らは二度と日本に逆らえなくなる。……現代の言葉で言えば『政府開発援助(ODA)』による経済的植民地化だ」
幸隆は、チェリーの煙をゆっくりと吐き出した。
武力による大東亜共栄圏ではなく、経済とインフラによる大東亜の再定義。
これこそが、未来の歴史を知り尽くした最強の与党幹事長が描く、誰一人として文句のつけようがない「完全なる勝利」の形であった。
「クックック……。総理、貴方という人は本当に恐ろしい。軍人どもの何百倍もタチが悪い」
吉田は愉快そうに葉巻を灰皿に押し付けた。
「この吉田茂、外務大臣として存分に腕を振るわせてもらいましょう。……蒋介石の懐に、たっぷりと甘い毒を流し込んできますぞ」
主従ではない。同じ盤面を俯瞰し、共に世界を食い物にしようとする最強の「味方」。
二人の悪党は、互いの知略を認め合うようにニヤリと笑い合った。




