EP 6
大陸の火種、再び――愚者たちの暴走
昭和11年5月。
北支那(中国北部)、北平(北京)郊外の夜闇は、不気味な静寂に包まれていた。
「……撃て。中国国民党軍の陣地へ向けて、空砲で構わん。撃ち込め」
塹壕の中で、帝国陸軍の市川少佐は、血走った目で部下に命じた。
彼は、不当な横領罪を着せられ、帝都の便所掃除へと追いやられた牟田口廉也の熱烈な信奉者(取り巻き)の一人だった。
「市川少佐殿! しかし、中央(東京)からの命令なしに発砲すれば、明らかな軍紀違反……!」
「馬鹿者が! 軟弱な近衛内閣は、アメリカの拝金主義に魂を売り、満州を白人に売り渡そうとしている! 牟田口大佐殿の無念を晴らし、帝國の威信を大陸に轟かせるには、我々が『既成事実』を作るしかないのだ!」
市川は、狂気に満ちた大和魂を煮えたぎらせていた。
現場で戦闘状態に突入してしまえば、東京の政府も軍部も、同胞を見捨てることはできず必ず増援を送ってくる。そうやって帝国陸軍は領土を広げてきたのだ。
パーンッ!!
夜の闇を裂いて、乾いた銃声が響き渡った。
それを合図に、市川はあらかじめ用意していた悲痛な電文を、通信兵に打たせた。
『我、支那軍(中国軍)ヨリ不法射撃ヲ受ク。直チニ自衛戦闘ニ入ル。至急、増援ヲ乞ウ』
「ガハハハッ! これで開戦だ! 近衛の腰抜けめ、今頃帝都で慌てふためいているだろうよ!」
市川は暗闇の中で、己の描いた狂った愛国心に酔いしれ、高らかに笑い声を上げた。
◆
同じ頃。
東京、首相官邸の執務室。
「……というわけだ。連中、見事なまでに歴史(俺の記憶)通りに動きやがった」
幸隆は、金曜日の昼食である『海軍カツカレー』を平らげながら、大慌てで飛び込んできた秘書官の結城が差し出した電報を、極めて退屈そうに一瞥した。
中国軍からの不法射撃。自衛戦闘への突入。
文字面だけを見れば国家の危機だが、幸隆の三白眼には微塵の焦りもない。
「そ、総理! このままでは大陸で全面戦争に……! 軍の参謀本部からは『ただちに増援の派兵を』との突き上げが来ております!」
「増援だと? 誰がそんな予算を出す。自作自演の三文芝居に付き合うほど、大蔵省の財布は甘くない」
幸隆は食後のコーヒーをすすり、ハイライトに火を点けた。
「現場の暴走(下克上)で国を動かせると思っている、時代遅れの馬鹿どもめ。……シビリアンコントロール(文民統制)の何たるかを、その体に直接叩き込んでやる」
幸隆は受話器を取り上げ、陸軍省へ直接ダイヤルを回した。
「俺だ。……東條を呼べ」
数分後、執務室に現れた陸軍次官にして憲兵司令官・東條英機は、幸隆から渡された北支那からの電報を読むなり、丸眼鏡の奥の瞳を凄まじい怒りで燃え上がらせた。
「……統帥権の干犯。総理の許可なき、現場の独断専行。……これは、大日本帝國に対する明確な『反逆』であります」
生真面目で規律を何よりも重んじる東條にとって、軍の命令系統を無視して勝手に戦争を始めようとする市川少佐たちの行動は、万死に値する大罪であった。
「その通りだ、東條。お前の大好きな『規律』がウンコまみれにされているぞ」
幸隆はニヤリと笑い、東條の肩をポンと叩いた。
「今すぐ立川飛行場へ向かえ。陸軍の最新鋭輸送機を用意させてある。お前の直属の、一番腕の立つ特務憲兵たちを連れてな」
「総理、ご命令を」
東條は踵を鳴らし、直立不動の姿勢をとった。
「増援のふりをして現地へ降り立ち……戦争を始めようとしている馬鹿どもを、一匹残らず『物理的』に鎮圧しろ。法に逆らう狂犬は、その場で射殺して構わん。全責任は、この内閣総理大臣・近衛文麿が持つ」
一国の総理が自軍の将校に対して下した、冷酷極まりない「処刑命令」。
「……承知いたしました。帝國の病巣は、この東條が自らの手で切開いたします」
東條は深く敬礼し、軍靴の音を響かせて夜の闇へと出撃していった。
数時間後、増援の到着を待ちわびていた市川少佐たちの前に降り立ったのは、彼らを英雄として称える友軍ではなく――完全武装し、安全装置を外した短機関銃を構える、死神のような憲兵の群れであった。
「さあ、お前たちの命で、この国のルール(法)を再定義してやる」
幸隆は遠く離れた帝都の空を見上げながら、短くなったタバコを灰皿に押し付けた。




