EP 5
赤い影と防諜戦――答えを知る男
日米合弁による「満州産業開発公社」の設立合意。
その極秘情報がアメリカより先に漏れ伝わり、世界で最も顔色を失った国があった。北の巨大な赤いヒグマ――ソビエト連邦である。
昭和11年4月末。東京・麻布の閑静な住宅街。
ドイツの新聞記者という表の顔を持つソ連の天才スパイ、リヒャルト・ゾルゲは、深夜の密室で滝のような冷や汗を流しながら、通信手であるマックス・クラウゼンに怒号を飛ばしていた。
「急げ、マックス! ウラジオストクへの暗号打電を急ぐんだ!」
「待ってくれリヒャルト、真空管が焼け焦げそうだ! だが、なぜこんな異常事態が起きている? あの優柔不断な近衛文麿が、アメリカの資本(ウォール街)を満州に引き入れるなど……!」
ゾルゲの美しい顔は、焦燥に歪んでいた。
ソ連の南下政策にとって、満州は喉から手が出るほど欲しい拠点だった。しかし、もしそこにアメリカの巨大資本が入り込めば、満州は事実上「日米の共同金庫」となる。ソ連が手を出せば、必然的に超大国アメリカを敵に回すことになるのだ。
(近衛文麿……! あの男、軍部の暴走を止めただけではなく、世界地図のパワーバランスそのものを塗り替えようとしているのか……!)
ソ連本国に、この致命的な地政学的変化を警告しなければならない。
日本政府の中枢に食い込んでいる協力者、尾崎秀実から得た情報を元に、ゾルゲは暗号文を叩き出そうとした。
その時である。
ドガァァッ!!
突如、木製の玄関ドアが蝶番ごと吹き飛ばされた。
「なっ……!?」
「動くなッ!! 帝國陸軍憲兵隊、および内務省特高警察であるッ!」
窓ガラスが次々と割られ、雪崩れ込んできたのは、重武装した数十名の憲兵たちだった。手には南部十四年式拳銃や、抜身の軍刀が握られている。
「き、貴様ら! 私はドイツの特派員だぞ! 不当な家宅侵入……」
ゾルゲが外交特権を盾に声を荒らげようとした瞬間、憲兵隊をかき分けて、一人の軍人が冷酷な足取りで歩み出てきた。
陸軍次官にして、憲兵司令官。東條英機である。
「芝居は終わりだ、ラムゼイ(ゾルゲの暗号名)」
「……っ!?」
自分の絶対の秘密である暗号名を呼ばれ、ゾルゲの心臓が凍りついた。
東條は、懐から数枚の書類を無造作に取り出し、ゾルゲの顔の前に突きつけた。
「主犯、リヒャルト・ゾルゲ。通信手、マックス・クラウゼン。情報提供者、尾崎秀実……。貴様らソ連の犬の『名簿』と『潜伏先』、そして『通信用の乱数表の隠し場所』まで、我が国はすべて把握している」
「ば、馬鹿な……」
ゾルゲはその場にへたり込んだ。
数年かけて構築した、日本国内における絶対に見つからないはずの完璧なスパイ網。それが、末端の協力者の一人に至るまで、完璧にリストアップされていたのだ。
まるで、神の視点からすべてを見透かされているかのように。
「誰が……誰が、この完璧な諜報網を……! 特高警察にそんな能力があるはずが……!」
「……俺だよ」
憲兵たちの奥。
深く帽子を被り、高級なトレンチコートを着込んだ長身の男が、タバコの煙を吐き出しながら姿を現した。
「そ、総理……大臣……!?」
一国の最高権力者である近衛文麿(幸隆)が、自らスパイの摘発現場に足を運んできたという異常事態に、ゾルゲの脳は完全に処理能力を失った。
史実を知る幸隆にとって、ゾルゲ事件など「歴史の教科書に答えが載っているテスト」に過ぎない。誰がスパイで、どこに無線機を隠しているかなど、現代の政治家(歴史マニア)であれば一発で特定できるのだ。
幸隆は、机の上で稼働したままになっている短波無線機に目を落とした。
「まだウラジオストクの受信局と回線は繋がっているな?」
「……何を、する気だ」
幸隆は無線機の前に座ると、ゾルゲの暗号表をパラパラと捲り、自らの手で電鍵を叩き始めた。
元・防衛相として、各国の軍事通信のプロトコルはお手の物である。
ツー、トン、ツー、ツー。
『――こちら、大日本帝國内閣総理大臣、近衛文麿』
モスクワのクレムリンにいるであろう、赤い独裁者へ向けた、直接のメッセージ。
『貴国が放ったネズミどもは、すべて駆除した。……満州は今から、アメリカ合衆国のドルと、我が帝國の法によって守られる。不凍港が欲しければ他所を当たれ。一歩でも国境を越えれば、米英日の巨大資本が、貴国を経済と武力で完全に干し殺す』
幸隆は最後の打電を終えると、電鍵をガシャンと叩き壊した。
そして、絶望に顔を歪めるソ連の天才スパイを、冷酷な三白眼で見下ろした。
「共産主義の赤い夢は、自分の布団の中だけで見るんだな」
史実では日本の中枢を掻き回し、のちに処刑されるはずだったゾルゲ諜報団は、活動を本格化させる前に、幸隆の「歴史の知識」という名の暴力によって、一夜にして完全壊滅した。
そして、この総理自らの電撃的な防諜作戦は、東條英機ら軍部や内務省の官僚たちに「近衛総理は、神のごとくすべてを見通している」という、さらなる狂気的な心酔を植え付けることとなった。
最強の幹事長による盤面支配は、いよいよ隙のない完全な包囲網を形成しつつあった。




