EP 10
精神論の末路 〜大佐・牟田口廉也の便所掃除〜
昭和11年3月1日。
帝都の反乱が近衛新総理の圧倒的な政治力によって鎮圧されつつあった頃。
東京・赤坂の高級料亭では、一人の帝国陸軍将校が、取り巻きの部下たちを侍らせて豪快に杯を干していた。
陸軍大佐、牟田口廉也(むたぐち れんや・47歳)である。
「ガハハハッ! 見たか、あの腑抜けた近衛公爵のラジオ演説を! カネが凍結されたくらいで大騒ぎしおって。やはり文官や貴族どもには『大和魂』というものが根本から欠けとるのだ!」
上機嫌にクダを巻く牟田口の顔は、酒と脂でテカテカと光っていた。
彼はまもなく、栄転として『支那駐屯歩兵連隊長』として中国大陸へ渡ることが内定している。このまま大陸で一旗揚げ、いずれは将官へと登り詰める。彼の頭の中は、己の栄達と輝かしい未来で満たされていた。
「だいたい兵站(補給)などと、軟弱なことを言うから軍が弱くなるのだ! 腹が減ったら野の草を食えばいい! 弾が尽きたら銃剣で突け! 銃剣が折れたら素手で殴れ! それが皇軍の強さの根源であろうが!」
「「「おおっ! さすがは牟田口大佐殿! 我らも大陸へお供いたしますぞ!」」」
取り巻きの若手将校たちが、拍手喝采で煽り立てる。
芸者を呼び寄せ、さらにドンチャン騒ぎを続けようとした、まさにその時だった。
ダァンッ!!
料亭のふすまが、乱暴に蹴り開けられた。
「な、なんだ貴様ら!」
土足のまま座敷に踏み込んできたのは、サーベルを下げ、腕に『憲兵』の腕章を巻いた屈強な男たちだった。
その先頭に立つ憲兵将校が、冷酷な目で牟田口を見下ろす。
「陸軍大佐、牟田口廉也だな」
「いかにも俺が牟田口だが……憲兵が何の用だ! ここをどこだと心得る!」
「陸軍省人事局、および東京憲兵隊本部からの特命である」
憲兵将校は、一枚の命令書を牟田口の顔の前に突きつけた。
「貴殿の支那駐屯歩兵連隊長への補職は、本日付をもって『白紙撤回』とする」
「……は?」
「ならびに、貴殿を即日『予備役(実質的なクビ)』へ編入する。軍服を脱いでもらおうか、一般人」
料亭の空気が、文字通り凍りついた。
牟田口はポカンと口を開け、手からお猪口を取り落とした。
「ば、ばかな! 俺は郷田中将閣下の推挙で連隊長になるんだぞ! そんな命令、誰が下したというのだ!」
「近衛文麿・内閣総理大臣閣下だ」
憲兵将校の言葉に、牟田口は目玉が飛び出るほど驚愕した。
「総理権限による強権発動だ。理由は『兵站および軍事後方支援に関する致命的な知識不足』、ならびに『過度な精神論による部隊崩壊の危険性あり』とのことだ」
「ふ、ふざけるなァッ!!」
牟田口は顔を真っ赤にして立ち上がり、軍刀に手をかけようとした。
「弾がなくとも魂で戦うのが大日本帝國の軍人だ! 兵站などという軟弱な思想で、この俺を予備役に追いやるなど、陸軍が承知せんぞ!」
「……それが、総理直々の命令で、すべて『大蔵省の大掃除』で捲れているんだよ」
憲兵は、ゴミを見るような目で牟田口を鼻で笑った。
「貴様が郷田中将の派閥から受け取っていた工作資金の裏帳簿。満州のダミー会社からこの料亭に振り込まれていた遊興費。……ぜんぶ、総理と大蔵省に握られている。東條英機少将率いる憲兵隊が、満州の貴様の金庫もすべて差し押さえたそうだ」
「ひっ……!」
東條英機――軍紀に異常なほど厳格な「カミソリ東條」の名前が出た瞬間、牟田口の顔からスッと血の気が引いた。
「貴様はもう、大佐でも軍人でもない。ただの横領犯の容疑者だ。連行しろ!」
「はっ!!」
屈強な憲兵たちが牟田口の両腕を捻り上げ、座敷の畳に顔面を叩きつける。
「い、痛いッ! やめろ! 離せ! 俺は連隊長だぞ! 大和魂がぁぁっ!!」
「やかましい。横領した軍資金の全額を弁済するまで、帝都の留置所行きだ」
取り巻きの将校たちは、巻き添えを食うのを恐れてクモの子を散らすように逃げ出していた。
◆
それから一週間後。
市ヶ谷の陸軍省の片隅にある、吹きさらしの薄暗い兵卒用便所。
「おい、新入り! 便器の裏側にまだ尿石がこびりついてるぞ! 貴様、それでも大日本帝國の男か! 大和魂で磨かんか、大和魂で!」
「ひぃぃっ! す、申し訳ありません、すぐやります……!」
軍服を剥ぎ取られ、みすぼらしい作業着を着せられた初老の男が、泣きながらデッキブラシで便器を力一杯こすっていた。
牟田口廉也である。
横領の罪で投獄された彼は、巨額の借金を返済するための「労役」として、陸軍の最下層である便所掃除を命じられていた。
かつて彼がアゴで使っていた下士官や兵卒たちが、ニヤニヤと笑いながら彼を足蹴にする。
「ほれほれ、元・大佐殿! 腹が減ったらそこの草でも食えばいいんじゃないスか? ガハハハ!」
「精神論で便器が綺麗になるか試してみてくださいよ!」
かつて自分が部下たちに押し付けていた「理不尽な精神論」と「暴力」を、今度は自分が最底辺で味わい続ける無間地獄。
素手で冷たい水と汚物にまみれながら、牟田口は屈辱と後悔の涙をボロボロとこぼした。
「うぅぅ……なぜ、なぜこんなことに……俺は、俺は栄光の連隊長になるはずだったのにぃぃ……っ!」
のちに数万の将兵を地獄へ送るはずだった「愚将」は、戦場に立つこともなく、歴史の表舞台から永遠に姿を消した。
冷たい便所の床を這いずる彼の泣き声は、誰の耳にも届くことはなかった。




