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EP 1

幹事長室のカレーと、華族の目覚め

「金曜日はカレーだ。これは俺の中で国防と同じくらい重要な案件なんだよ」

令和の時代。東京・永田町の議員会館。

与党幹事長である若林幸隆(わかばやし ゆきたか・50歳)は、執務室の高級レザーソファにどっかりと腰を下ろし、秘書に買ってこさせた名店のカツカレーを猛烈な勢いで掻き込んでいた。

「幹事長、午後イチで野党の国対委員長との会談が……」

「ああ、あの狸オヤジか。適当に泳がせておけ。どうせ次の法案で裏取引を持ちかけてくる。こっちの要求を全部呑ませるように『調整』は済ませてある」

カツカレーを完食した幸隆は、分厚い胸板を逸らして息を吐く。

食後のブラックコーヒーをあおり、ポケットから取り出した「ライオネスコーヒーキャンディ」を口に放り込むと、ショートホープならぬ、タールもニコチンも重い『ハイライト』に火を点けた。

紫煙を深く吸い込む。

慶大卒から弁護士を経て、50歳という異例の若さで与党幹事長にまで登り詰めた。防衛大臣時代に培った胆力と、特技の合気道で鍛え上げられた180センチの巨躯。そして何より、相手の急所を的確にえぐるような冷徹な交渉術。

政界の魑魅魍魎たちすら震え上がる「鉄壁の若林」だが、連日の派閥闘争と激務で疲労はピークに達していた。

「……15分だけ寝る。総理からの電話以外は繋ぐな」

ソファにごろりと横になる。

ハイライトの煙の匂いと、コーヒーの苦味が混ざり合う執務室で、幸隆は泥のように深い眠りに落ちた。

   ◆

「――閣下! 公爵閣下ッ!!」

悲痛な叫び声で、幸隆は目を覚ました。

(なんだ……? うちの秘書の声じゃないな)

ゆっくりと体を起こす。

その瞬間、幸隆は猛烈な違和感に襲われた。

ハイライトの煙の匂いがしない。それどころか、空気がやけに冷たく、埃っぽい。

座っていたはずの革張りのソファは、見慣れない豪奢なアンティーク調の長椅子に変わっていた。

「おい、ここはどこだ……?」

立ち上がろうとして、足元がふらつく。

重心がおかしい。長年、合気道の鍛錬で丹田に定着していたはずの、あの岩のような筋肉の重みがない。手を見ると、ペンより重いものを持ったことがなさそうな、白く細い指をしていた。

幸隆は、部屋の壁に掛けられた大きな姿見アンティークミラーの前に立つ。

そこに映っていたのは、短髪で三白眼の初老の男――若林幸隆ではなかった。

身長は自分と同じくらい高い。だが、ひ弱だ。

上品な身なりをした、どこか憂いを帯びた顔立ちの、40代半ばの男。

「……冗談だろ」

歴史好き、そして元・防衛相である幸隆が、その顔を見間違えるはずがなかった。

近衛文麿このえ ふみまろ

戦前の日本において、国民から絶大な人気を集めながらも、軍部の暴走を止められず大戦への道を開いてしまった「悲劇の宰相」であり、名門華族のトップである。

「近衛公爵閣下!!」

バンッ! と音を立てて、レトロな木製のドアが開いた。

顔面を蒼白にさせた書生風の男が、転がり込むように部屋に入ってくる。

「一大事でございます! 陸軍の青年将校らが武装蜂起し、総理官邸や警視庁を占拠! 岡田総理は……岡田総理は、凶弾に倒れられたとのことですッ!!」

書生はガタガタと震えながら叫んだ。

その言葉を聞いた瞬間、幸隆の頭の中で、すべてのピースがカチリと音を立てて噛み合った。

1936年(昭和11年)2月26日。

世に言う『二・二六事件』の真っ只中だ。

史実の近衛文麿は、このクーデター事件の直後、事態収拾のために天皇から総理大臣に指名される。しかし、彼はそのプレッシャーと軍部への恐怖から、「健康上の理由」と称して逃亡し、総理の座を辞退してしまうのだ。

「閣下! このままでは軍部が国を乗っ取ってしまいます! しかし、今、表舞台に立てば閣下の命も……!」

泣き崩れそうになる書生を見下ろし、鏡の中の『優柔不断な貴公子』は――

ニィッ、と。

まるで獲物を見つけたサメのような、凶悪な笑みを浮かべた。

「おい、泣き喚く暇があったら、ブラックコーヒーを淹れろ」

「……へ?」

「話はそれからだ。……それにしても、血の匂いが立ち込める帝都のど真ん中で、国を動かすドロドロの権力闘争か」

幸隆は、自身の細い首をゴキッと鳴らした。

生温い令和の議会よりも、よっぽど血がたぎるじゃないか。

「面白ぇ。軍部の青二才どもに、本物の『政治』ってやつを教育してやる」

昭和という激動の時代に、最強の与党幹事長が放たれた瞬間だった。

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