第5章 沈黙と回想(前半)
放課後の教室は、音が少なかった。
窓の外の空は高く、ただ広がっていた。
透は廊下の端で立ち止まる。
行き先を決めていないわけではない。
決める必要が、今はなかった。
教室の扉は開いたままで、机は整っている。
誰かが忘れた私物もない。
一日の終わりとして、申し分のない状態だった。
九条紗季は、窓際の席に座り、鞄の紐を指で整えている。
目線は外に向けられ、教室の空気には触れない。
透は、声をかけなかった。
九条も振り返らなかった。
沈黙は、自然にそこにあった。
気まずさと呼ぶには、感情が少なすぎる。
必要な言葉が見つからない、という種類の静けさでもない。
ただ、二人とも、ここにいる理由を説明しなかった。
風が入ってカーテンが揺れる。
布が窓枠に触れて戻る。
九条は目でそれを追った。
「……」
何か言いかけたようにも見えたが、口は開かなかった。
透は、黒板の端に残ったチョークの粉を見ていた。
朝、誰かが書いて、誰かが消しきれなかった跡。
放っておかれても困らない。
時間だけが進む。
時計を見る必要はなかった。
九条は小さく息を吐き、机の縁に指先を置いて軽く叩く。
音は出ない。
叩いたことだけが、残る。
教室の外で、誰かの笑い声がした。
すぐに遠ざかる。
今日も、世界は通常運転だった。
九条は視線を落とし、自分の手を一度だけ見た。
何かを確かめるような、短い確認。
透は椅子に腰掛けず、立ったままその様子を見ていた。
沈黙を破る理由は、まだない。
破らなくても、何も壊れない。
ただここに立ち止まっていることだけが、
これまでと違っていた。
空は変わらず広がり、光は少しずつ傾き始める。
九条はまだ何も言わない。
透も、まだ何も選ばない。
沈黙は続く。
それが、この時間の、唯一の形だった。




