第1章 日常と違和感(後半)
放課後の教室は、昼間よりも音が少なかった。
部活に向かう生徒たちの足音が廊下を流れ、教室には数人だけが残る。
透は席に座ったまま、鞄を閉じるタイミングを逃していた。
黒板は消され、机の上には誰かが忘れたプリントが一枚残っている。
拾うほどの用事でもなく、捨てるほど無関係でもない。
「相沢、今日も生徒会?」
前の席の男子が振り返って聞いた。
「うん」
それだけで会話は終わる。
九条は、窓際で書類をまとめていた。
提出用の封筒に書類を揃え、順番を確認し、端を揃える。
その一連の動きは、いつもと変わらない。
「九条、これ職員室に出してくる?」
副会長が声をかける。
「私が行く」
即答だった。
「じゃあ、俺は鍵閉めとくよ」
「ありがとう」
やり取りは簡潔で、無駄がない。
誰も引っかからないし、引っかかる必要もない。
透は、九条が封筒を持ち上げるとき、ほんの少しだけ手元を見た。
紙の重さを確かめるような動き。
ただそれだけのことなのに、視線が一瞬遅れたように見えた。
職員室までの廊下は、夕方の光で長く伸びている。
窓から入る風が、掲示物を揺らす。
九条は前を歩き、透は少し後ろをついていく。
「今日の会議、早く終わりましたね」
透が言うと、九条は頷いた。
「無駄なところがなかったから」
それは事実だった。
段取りも判断も、すべて妥当だった。
「助かりました」
透はそれ以上、何も足さなかった。
帰り際、透は生徒会室の電気を消しながら、九条の横顔を見た。
疲れている様子はない。迷っている様子もない。
正しく終わった会議のあとにふさわしい、落ち着いた表情だった。
教室に戻ると、クラスメイトたちは別の話題で盛り上がっていた。
テストの範囲、部活の大会、放課後の寄り道。
九条はその輪に少しだけ加わり、必要な返答だけをして、席に戻る。
誰も、何も疑っていない。
透も、疑う理由を説明できるほどのものは、何も持っていなかった。
ただ、九条が自分の席に座るとき、ほんの一瞬だけ、息を整えるような間があった。
それは深呼吸と呼ぶほど大きな動作ではなく、視線を落とすほどでもない。
見逃してしまう程度の、わずかな空白。
透は、その影を見なかったことにして、ノートに最初の一行を書いた。




