第3話 メビウスの夜
最終確認の日は、
驚くほど静かに始まった。
朝倉 恒一は、
いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は霧に包まれ、
施設全体が世界から切り離されたように見える。
――今日で、終わる。
そう思うと、
恐怖よりも奇妙な落ち着きがあった。
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午前中は、
身体検査と心理チェックだった。
血圧、心拍、脳波。
若い技師たちは淡々と数値を読み上げ、
恒一を「対象」として扱う。
最後に行われたのは、
心理確認だった。
「後悔は、ありませんか」
質問したのは、
三浦 玲奈だった。
「……ありますよ」
恒一は正直に答えた。
「でも、
後悔のない人生なんて、
あるんでしょうか」
玲奈は一瞬、言葉に詰まった。
「この制度は、
正しいと思いますか」
恒一は少し考え、
静かに首を振った。
「正しいかどうかは、
私には分かりません」
「それでも、
あなたは進む?」
「ええ。
ここまで来て、
戻る理由もない」
玲奈は、
書類にチェックを入れた。
それが、
最後の署名だった。
⸻
夜。
施設の奥、
立ち入り制限区域の先に、
〈メビウス〉はあった。
巨大な円環状の装置。
金属とガラスで構成され、
ゆっくりと回転している。
始まりも、終わりも、
見分けがつかない。
「名前を呼ばれたら、
中へ進んでください」
係員の声が響く。
恒一の順番は、
三番目だった。
前に進んだ二人が、
装置の中へ消えていく。
音はしない。
悲鳴も、光も、ない。
ただ、
人がいなくなる。
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「朝倉 恒一様」
呼ばれた瞬間、
胸が大きく脈打った。
一歩、
また一歩。
円環の中心に立つと、
床が柔らかく沈み込む。
玲奈が、
制御室の窓越しに立っていた。
目が合う。
彼女は、
深く頭を下げた。
――それが、
彼への最後の“人としての扱い”に思えた。
⸻
装置が、止まる。
次の瞬間、
視界が反転した。
上も下も分からない。
時間が、折り返していく。
身体が、
ほどけるような感覚。
骨が溶け、
皮膚が遠ざかり、
声にならない叫びが喉を通り過ぎる。
だが、
痛みはなかった。
あるのは、
強烈な懐かしさ。
小学校の校庭。
夏の匂い。
初めて黒板に字を書いた日の緊張。
それらが、
一気に流れ込んでくる。
「……ああ」
声にならない声が、
円環の中で消えた。
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そして。
目を開けた瞬間、
天井がやけに高く見えた。
手を動かすと、
小さな指が動く。
足も、短い。
「成功しました」
誰かの声が聞こえる。
だが、
その言葉の意味は、
もう理解できなかった。
――名前。
――年齢。
――過去。
それらは、
霧の向こうへ溶けていく。
最後に残ったのは、
理由の分からない涙だけだった。
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ベッドの脇で、
三浦 玲奈は
小さな少年を見下ろしていた。
記録端末には、
新しい情報が表示されている。
・年齢:10歳
・性別:男
・戸籍:新規生成
・記憶:初期化完了
だが、
少年の頬を伝う涙を見て、
玲奈は端末を閉じた。
「……おやすみ」
その声は、
誰に向けたものだったのか。
老人にか、
子供にか、
それとも――
消えた人生にか。




