第2話 施設という名の境界
朝倉 恒一は、指定された日の朝、
長年暮らした家の玄関に立っていた。
持ち物は、小さな旅行鞄ひとつ。
衣類と洗面用具、
そして――
何も書かれていないノート。
招待状には、
「私物は最小限に」とだけ書かれていた。
写真も、手紙も、位牌さえも、
持ち込むことは許されていない。
恒一は鍵をかけ、
ドアに向かって一礼した。
「世話になったな」
誰に言うでもない言葉だった。
⸻
施設は、
人里離れた山間部に建っていた。
高い塀も、有刺鉄線もない。
むしろ、学校か保養所のように
穏やかな佇まいをしている。
だが、門をくぐった瞬間、
恒一ははっきりと感じた。
――ここは、戻る場所ではない。
受付で名前を告げると、
無表情な端末が虹彩を読み取り、
無機質な音声が告げた。
「朝倉 恒一様。
ようこそ、メビウス転生準備施設へ」
人間の声ではなかった。
⸻
案内役として現れたのは、
三浦 玲奈という若い女性だった。
白衣ではなく、
どこか学校の先生のような服装。
それが逆に、この場所の異質さを強めていた。
「緊張、されてますよね」
そう言って、
彼女は無理に笑わなかった。
「……ええ。正直に言えば」
「ここに来る方、
皆さん同じ表情をされます」
玲奈は歩きながら、
施設の規則を淡々と説明した。
・個室は与えられる
・外部との連絡は禁止
・転生前夜まで、自由行動可
・途中辞退は可能
「辞退も……できるんですか」
思わず、恒一は足を止めた。
「はい。
その場合は、元の生活に戻れます」
「では、なぜ……」
「戻った方のほとんどは、
二度と同じ日常を
“元通り”とは感じられなくなるそうです」
玲奈の声は、
感情を抑えていた。
⸻
個室は、
病室にもホテルにも似ていない、
奇妙に“生活感のある”部屋だった。
ベッド、机、椅子、
そして、壁一面の鏡。
鏡に映る自分の顔を見て、
恒一はふと思う。
「この顔も、
あと数日で消えるのか」
夕食は、
他の入所者と共に取った。
年齢も、性別も、職業も違う人間たち。
だが共通しているのは、
皆、80歳前後だということ。
会話は少なかった。
誰もが、
自分の中の“人生”を
静かに畳んでいるようだった。
⸻
夜。
部屋に戻った恒一は、
持ってきたノートを開いた。
書くべきことは、
もうほとんど残っていない。
それでも、
彼はペンを走らせた。
――名前:朝倉 恒一
――年齢:79
――職業:教師
――大切だったもの:
・妻
・教室
・子供たちの声
最後に、
一行だけ書き足す。
――次の人生に、
この記憶は要らない。
ペンを置いた瞬間、
胸の奥が、ひどく痛んだ。
消灯のアナウンスが流れる。
明日は、
「最終確認の日」。
そしてその次の日、
彼は――
子供になる。
鏡の前に立ち、
恒一は自分に言い聞かせるように呟いた。
「これは、終わりじゃない」
だが、
その声は、
どこか震えていた。




