優輝との邂逅
10月に入り、風が涼しく肌を撫でるようになったある日。
あのお盆の日に聞かされた話は、どうしても十三の頭の片隅から離れなかった。
仕事の合間や夜寝る前になると、施設の玄関に置き去りにされた小さな子の姿が、ふっと浮かんでくる。つい四日前には、修行先の接骨院の院長に「仕事に集中しろ」と小言を食らったばかりだった。
夕食後。康平の紙おむつを替え終えた珠紀に、十三は少し緊張した面持ちで声をかけた。
「珠紀、少しいいかな」
「どうしたの、改まって」
十三は口を開きかけて、ほんの一瞬ためらった。だが、意を決して言葉をつなぐ。
「・・・お盆のときに話してた、施設のあの子のことだ」
「一度、会ってみようかと思ってる」
珠紀の手が止まり、驚いたように夫を見つめた。
「・・・どうしたの、藪から棒に?」
「あの話を聞いてから、ずっと頭から離れなくてな。どうやら俺は……あの子を放っておけないらしい」
「……会ったあと、どうするつもりで?」
珠紀の声は責める調子ではなく、ただ疑問を投げかける響きだった。
「それは、まだ分からない。どうしたいのか、俺自身まだ……」
十三の言葉はそこで途切れた。胸の奥で渦巻く思いは、まだ形になりきっていなかった。
しばらくの沈黙ののち、珠紀が小さく息をつき、頷いた。
「……まあ、面会だけなら大丈夫でしょう。ただし、必ず二人で行くこと。それが条件ね。実は私も、その子のことは少し気になっていたから」
「もちろんだ。ありがとう、珠紀」
翌週末、十三と珠紀は、まず康平を十三の両親に預けた。事情を聞いた父・辰馬と母のみどりは少し心配そうだった。
辰馬は「その子が心配なのは俺も一緒だがな」と漏らし、みどりに至っては「お人よしもいい加減にしな!犬猫の世話とは訳が違うんだよ、なんでそんな会ったこともない子のために・・・」と、床屋で整えたばかりのパーマを光らせながら呆れ気味だった。しかし、二人の真剣な表情を見て、それ以上は何も言わず了承してくれた。
車で施設に向かう道すがら、十三の胸は少し高鳴る。あの夏に聞いた話の中の少年――優輝――本当に会えるのか。どんな顔をしているのか、笑うのか泣くのか。
「乾さんですね、お待ちしてました。こちらです」
施設に着くと、受付の職員が落ち着いた声で案内してくれる。面会室に通されると、ソファに小さな影が見えた。十三の目には、一瞬でその子の孤独と無垢が映った。
珠紀がそっと十三の腕を握る。二人は言葉を交わさずとも、同じ覚悟を抱いてここにいることを確認した。
「……こんにちは、優輝くん」
十三が静かに声をかけると、少年は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、ゆっくりとこちらを見た。その瞳の奥に、長い孤独が垣間見える。
これが、乾夫妻と優輝のファーストコンタクトであった。
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面会室で、十三と珠紀は優輝を前にして、もう一度そっと声をかけた。
「……優輝くん、こんにちは」
だが、少年は一瞬こちらを見ただけで、すぐに顔をぷいと横に向ける。
「……」
反応はそれだけだった。どれだけ呼びかけても、体を少し丸め、視線を合わせようとしない。十三は肩を落とし、珠紀も静かに息を吐き、手を軽く握りしめた。
その日の面会は、結局ほとんど交流らしい交流もないまま静かに終わった。帰り際、二人は施設の面談室へと案内される。
ベテランの女性職員・林が、穏やかな声で説明を始めた。
「来たばかりの頃は、ずっと部屋の隅っこにいました。夜中も母親を求めるように夜泣きをして……とても不安そうで」
十三は、面会室で俯いていた優輝の小さな背中を思い出す。置き去りにされた孤独が、どれほど深く心に刻まれているのかを痛感した。
「でも、この二週間でやっと少し落ち着いてきました。顔を上げて周りを見られる時間も増えてきています」
珠紀は頷いた。報告に安堵する一方で、胸の奥では「母親代わりになれたら」という思いが芽生え始めていた。十三もまた、複雑な感情を抱きつつ深く息を吐いた。
「まだ心を開くのは難しいでしょう。でも、こうして少しずつ……人を信じることを学んでいくんですね」
面談を終えた二人は、優輝の姿を胸に焼きつけながら施設を後にした。
「...おおかた予想はしてたけどよ、やっぱり最初から簡単に心は開いてくれない...か」
「えぇ。でも・・・それはしょうがないわ。私だって優輝くんと同じ立場になったら、ああなっちゃうと思う」
「そうだな・・・まぁ、根気よく続けてみようか。慌てたって、何もいい事はないしな」
そう言いながら2人は車に乗り込み、施設を後にした。
「・・・びっくりでしたね。あの子の親戚の人が来るなんて」
その頃、施設の若手の男性職員が、林に話しかけていた。
無理もない。優輝の母親は、蒸発という手段を選ばざるを得なかったほど、親戚と疎遠だったのだ。果たして、ほとんど関わり合いのない子供の面倒を見れる人など、この世にどれだけいるのだろうか。
「そうねぇ。今まであまり見たことのないパターンだわ。でも、人はすごく良さそうだったわよ」
「アハハ・・・旦那さんの方、少しコワモテでしたけど」
そうやりとりしながら、2人は優輝を見つけた朝の事を思い返していた。
『うわああぁぁぁん、おかぁしゃああぁーーーん!!!』
その日、早出だった林は優輝を玄関で発見した。部屋の中に運んだ時に彼は目を覚ましたのだが、見覚えのない場所、いるはずのない人たちと、いるべき母親がいない事で一気にパニックになり、大声で泣き喚き出したのだった。
『大丈夫よ、落ち着いて、落ち着いて・・・!!!』
その場にいた職員たちが何とか宥めようとしたが、彼の耳には届かず、その声は優輝の泣き声に大きくかき消されてしまった。
『ああああぁあーーー!!!!うわあああぁーーーーー!!!』
その日、彼の涙と声はしばらく止まらなかった。
「・・・あの時の事、私忘れられそうにないわ。あの人たちにあの子、上手く馴染んでくれたらいいんだけど」
林は水筒のお茶を飲みながらそう願っていた。




