夜桜の下で
夜桜が風に吹かれ、花びらを静かに散らす。近くの街灯のオレンジの光に、春の風の冷たさが青く吹きかかっているようだ。
その光の下に、すうっと影が映り込んだ。
児童養護施設「夕なぎ園」の玄関前に、一人の女性が幼い子を抱えて立っていた。
背後に見える公園の時計は、午前二時を指している。満月に照らされたその姿は、まだ肌寒いこの季節にそぐわぬ薄着で、布地には細かいシワが目立つ。肩口まで伸びた髪も手入れの跡はほとんどなく、静かに風に揺れていた。
彼女の腕の中に眠る子供だけが対照的に、厚い毛布に包まれて身なりも整っている。
「……大丈夫だよね。ここなら……」
絞り出すような声でつぶやいた彼女の表情には、良心の呵責が深く刻まれていた。
弱く冷たい風がひゅうっと、彼女らの肌を撫でる。
駐車場に止めらてれている車の下にいた黒猫が、何かの気配を察したかのように、シャッと彼方へと飛び出していった。
十分ほど立ち尽くしていただろうか。ついに彼女は、震える腕でそっと子を玄関に置いた。
毛布の隙間には、几帳面に書かれた書き置きと、丁寧にまとめられた母子手帳。表紙には母と子の名前――「大倉優輝」と記されている。
「ごめんね、優輝……本当にごめんね……」
彼女は涙をこぼしながら、夢の中の息子に何度も謝り、背を向けた。
その背を押すように、春の夜長の月明かりと冷たい風が、静かに玄関へと吹き込んでいった。
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乾十三にその知らせが届いたのは、彼が二十代後半に差し掛かった1980年代半ばのことだった。
三年前に息子・康平を授かり、慌ただしい子育てに追われていた頃のことだ。夏のお盆の親戚の集まりで、自身のはとこにあたる女性が、康平と同じくらいの年の息子を児童養護施設に置き去りにして蒸発した――そんな話を聞かされたのである。
話によれば、どこの誰の子かもわからぬ子を一人で育てていたが――当時は「シングルマザー」という言葉すら一般的ではなかった――手に職もない女性一人では生活は困窮していた。ある日の夜、寝静まった子どもを毛布に包み、母子手帳と書き置きを残して施設の玄関に置いて去ったのだという。その後、女性は行方をくらまし、連絡も取れなくなったらしい。
当然、自宅や勤め先に警察の捜索も入ったが、勤め先の商店の人も連絡が取れず、自宅のアパートの大家によると、3ヶ月も前から家賃を滞納していたらしい。警察からの問い合わせを受けた親戚がアパートを訪ねると、部屋の中に放置された荷物は驚くほど少なく、生活感はほんのわずかにしか感じられなかったようである。
「……そんなことがあったのか」
十三は神妙な顔で呟き、豊富に立った髪の毛を右手でいじった。その風貌はまるで、若い雄のライオンのようである。
隣で話を聞く三つ編みのお下げ姿の珠紀も、丸メガネの奥に光る目に、ショックの色を隠せない。
「それで……その子は、今どうなってるんです?」
珠紀が恐る恐る尋ねると、話を聞かせに来た親戚のおばさんは、気の毒そうな顔をして答えた。
「ええ……施設や警察から問い合わせがあってね。親戚で引き取れる人はいないかって。でも、どこも手いっぱいで、よその子を受け入れる余裕はないのよ。うちも面倒を見られたらいいんだけど、年寄りばかりでねぇ。子ども一人の面倒も、もう体力も気力も残ってないのよ……」
「そうですか……」
十三は思うことがあるように頷いた。自分も妻と二人、それに両親の助けもあって、やっと康平一人の面倒を見ている。母親一人で全てを背負っていたと考えるだけで、白髪が増えそうな気がした。それと同時に、限界を迎える前に頼れる人やサービスを頼ることはできなかったのか――という残念な気持ちも湧いた。
「……くん。十三くん」
声に気づき、飛び上がるように振り返った。珠紀が立っていた。
気づけば、おばさんは別の卓に移り、満州帰りの祖父にビールを注ぎながら話し込んでいる。
「もしかしてだけど……その子のこと、引き取れないか、とか考えてるんじゃない?」
十三は心臓をぎくりとさせた。大学時代からの付き合いの珠紀は、人の心を読むのが本当に上手い。あるいは、自分の顔に考えが表れすぎているのかもしれない。確かに、おばさんの話を聞いて最初に浮かんだのはその思いだった。
「い、いや……そんなことはない、とも言い切れない」
「ウフフ、正直でよろしい」
珠紀は微笑み、「理由だけ聞こうか?」と続けた。
「...俺の親父と爺さんが満州帰りなのは知ってるよな?」
「うん」
珠紀はチラリと、十三の祖父の卓に目をやった。親戚のおばさんについでもらったビールを飲みながら、祖父は「ガハハ」と笑い声をあげている。息子の康平は、曽祖父の隣で一心不乱に焼きトウモロコシを食い散らかしていた。
「やっこさんがた、終戦前後に釜山経由でうまいこと地元に帰ってこれたのはいいんだけどさ。近所に戦災孤児やらなんやら、結構いたらしいんだ。」
「うちの爺さん、私財投げ打って何人かの子供世話見てたらしいんだ。同じくらいの歳の親父もいるのにだぜ?」
「まあ、爺さんのそういう話を聞いてたらさ。俺も同じ境遇の子供が身近にいようものなら、力になってやりたいって思ってたのさ」
「,,,そうだったんだ」
珠紀は静かに十三の話を聞き、そしてすぐ真面目な顔で語り始めた。
「でもさ……お祖父様とうちとでは状況は違うじゃない。康平も三歳になったばかりだし、十三くんだって仕事を任され始めたばかりでしょ?
仮に引き取ったとしても、その後はどうするつもり?」
「それに、これは私たち夫婦だけの問題じゃないの。
お義父さんやお義母さん、私の両親も含めての問題になるわ。今までも康平一人のことで、随分お世話になったのを、あなたもよく分かってるでしょう?」
「ああ、そうだな……そこはよく分かってる」
「……ま、その面倒見のいいところが、十三くんの一番いいところなんだけどね」
「そうだよな……俺たちだけの問題じゃないんだよなぁ」
十三は思案するように呟いた。その決意には、まだ揺らぎが残っていた。夏の昼の熱気に揺れる空気のように...。




