改変史:1954年「竹島警備行動」
(警察・海上保安庁による独自排除作戦)
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■ Ⅰ.発端(1953〜1954)
• 李承晩ライン設定後、韓国側が竹島に警備隊を常駐。
• 日本漁船への拿捕・銃撃事件が頻発。
• 1954年春、巡視船「へくら」銃撃事件が発生し、乗員が死亡。
日本国内では激しい抗議運動が起こり、
「政府は主権を守れ」「なぜ予備隊を動かさない」との世論が沸騰。
しかし――
• 憲法上、軍事的行動は不可能。
• 警察予備隊(後の自衛隊)は、「外部勢力との交戦行為」に出られない。
そのため、吉田内閣は警察・海保による“警察行動”としての排除を決断。
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■ Ⅱ.法的・政治的前提
項目 内容
根拠法 海上保安庁法第5条(治安維持)・警察法第2条(治安出動)
作戦指揮 内閣官房・警察庁・海上保安庁長官の共同管制
名目 「日本領土内の不法武装集団の排除」
対外説明 外国勢力との戦闘ではなく「治安出動」と主張
米国の反応 当初「自制を要請」するが、日本領内限定行動として黙認
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■ Ⅲ.作戦計画(1954年6月)
項目 内容
作戦名 「竹島警備行動」
実施機関 海上保安庁(主力)+警察(警備隊・特別機動隊)
総員 約400名(海保職員200、警察官200)
装備 巡視船7隻(20mm機関砲搭載3隻)、小型艇数隻、警察特車・軽火器
支援 無線観測機(米側情報支援あり)
目的 韓国警備隊の排除・不法施設の撤去・国旗掲揚
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■ Ⅳ.作戦経過(1954年6月20〜23日)
● 第1日(20日)
• 海上保安庁巡視船が竹島に接近。韓国警備隊が威嚇射撃。
• 海保が回避しつつ応戦。双方に死傷者発生。
• 日本側は上陸を試みるが、韓国警備隊の抵抗で失敗。
→ 日本側:死者7名、負傷15名
→ 韓国側:死者10名、負傷20名
● 第2日(21日)
• 海保は再上陸を断念。夜間に警察特別機動隊が小艇で上陸強行。
• 島の西側で激しい銃撃戦。
• 警察側は装備が劣り、損害甚大。
→ 警察官30名戦死、50名負傷。
→ 海保の援護射撃で韓国警備隊の抵抗崩壊。
● 第3日(22日)
• 日本側が島を制圧。韓国兵約20名拘束。
• 灯台・通信設備を撤去、日本国旗掲揚。
• 戦闘後、海保・警察双方が重傷者多数で行動継続不能となり、撤収・警備交代へ。
● 第4日(23日)
• 日本政府、公式声明を発表:
「日本警察当局は主権侵害を排除し、治安を回復した」。
• 韓国は猛烈に抗議、「日本による侵略」と非難声明を発表。
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■ Ⅴ.結果と影響
項目 内容
成果 韓国警備隊を排除、竹島の実効支配を回復。
日本側損害 警察官45名死亡、海保職員10名死亡、負傷者多数。
韓国側損害 死者30名前後、捕虜20名。
国際法上 日本領内での警察行動として合法。
米国対応 「自衛行為として理解」しつつ、韓国に厳重警告。
韓国 国民的憤激、反日暴動発生。米国の制止で軍出動を断念。
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■ Ⅵ.政治的帰結
日本国内
• 警察・海保の英雄視。戦死者に国葬級の待遇。
• 同時に、「警察では国家主権を守れない」という現実が明らかに。
• これを契機に「警察予備隊の国防組織化」要求が急拡大。
→ 翌1955年、防衛庁設置法制定。
→ 警察予備隊が「国防警備隊(のちの自衛軍)」へ昇格。
韓国
• 李承晩政権は国内統制のため「対日報復」を叫ぶが、
米国が介入して軍事行動を禁止。
• 経済援助を削減され、政権の求心力が低下。
• 「独島の悲劇」として国是化され、反日は国家宗教化。
米国
• 一時的に緊張を懸念するも、日本の主権行使能力を高く評価。
• 「極東防衛の要は日本」との認識が確立。
• 在韓米軍の縮小、日本への装備供与を強化。
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■ Ⅶ.社会的影響
• 警察官・海保職員の殉職が国民的感情を揺るがす。
→ 戦後初の「戦死」概念の復活。
→ 「平和憲法の限界」論が一気に主流化。
• 左翼陣営は「憲法違反の武力行使」と非難するも、
世論は圧倒的に政府支持。
• 戦後初の「戦没者慰霊式」が国立墓地で開催され、
国家再建意識が強まる。
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■ Ⅷ.総括:この分岐の意味
観点 内容
主権 警察権によるぎりぎりの自力防衛成功。
法制度 「非軍事国家」の限界露呈、国防軍化の直接契機。
外交 韓国孤立、米国の日本重視路線へ転換。
社会 国民の安全保障意識が一気に現実的・保守的に。
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■ 結論
「竹島警備行動」は、
日本が“非軍事国家”のまま主権を守った、最初で最後の警察戦闘。
成功と犠牲が、日本を真の安全保障国家へ変えた。




