婚約
侯爵家に生まれた私は、何不自由なく暮らしていたわけではない。
物心ついた頃から、朝から晩まで叩き込まれたのは、貴族としての作法と、生き抜くための武術だった。
一番の苦痛は、食事だ。豪華な食卓に並ぶ山海の珍味も、私の心まで満たすことはなかった。一口だけ許された甘いケーキを、悔し涙をこらえながら見つめた日を、私は忘れることができない。
ドレスや宝石はたくさん与えられたが、私は全く興味がないからたくさんあったところで嬉しくもない。
私が願うのは自由な生活だ。商人になり世界中を巡って商売をして暮らしてみたい。そしていつかは好きな人と結婚して、好きな人にそっくりな子供を産んで幸せになりたい。
十四歳の頃の私は、まだそんな淡い夢を見ていた。
「リンデル、お前の婚約が正式に決まったぞ」
「お父様、婚約ですか?私が?」
「ああ、そうだ。喜べ、お前の婚約者はガーディン殿下だ」
「えっ、まさか王太子殿下ですか?」
「そうだ。容姿端麗で聡明な、あの殿下だ」
「そうですか……分かりました。ですがお父様、王太子殿下は私よりも5つも上です」
「まあ普通は同い歳か一つ違いが望ましいとされているが、殿下と同じぐらいの歳のご令嬢は既に婚約者がいるからな……他国でも探してはいたんだが難しかったようなんだよ」
王太子殿下は幼い頃から隣国の王女様と婚約をされていたが、結婚間近になり王女様が体調を崩されたとのことで破談になったらしい。その後は国内で結婚相手を探していたが、年齢的に簡単には見つからなかったそうだ。
「でも私と話が合うでしょうか?」
「お前はまだ十四歳だから結婚は早くとも三年後だろう。今は子供扱いされるかもしれないが、女性の成長は男性よりも早いと言われているから、結婚する頃には良き話し相手になるだろう」
婚約が正式に決まっても、私は王太子殿下と一度もお会いすることはなく、月日だけが過ぎて私は十六歳になっていた。
王太子殿下は優れた魔法の使い手であるために、魔獣討伐に何度も行かれていたというのが会えなかった理由ではあるが、果たして本当なのだろうか?
仮にも将来国王になる予定の者に、そんな危険な任務を与えるだろうか?
「喜べ、王太子殿下が魔獣討伐から戻られて早1ヶ月、やっとお会い出来る日が決まったぞ」
我が家で喜んでいるのはお父様だけだ。
私もお母様もお兄様でさえも、既に呆れてしまっている。いくら立場的に此方から意見を言えないとは言っても、あまりにも酷すぎる仕打ちだった。
私は貴族学校で皆に陰口を言われ続けていたのだから。婚約が決まった当時は皆が私を羨ましいと言ったが、一年が過ぎた辺りからは陰口を言われるばかりだった。
「『会わずして捨てられた令嬢』」
「『欠陥令嬢』」
「『顔だけ令嬢』」
そんな風に言われ続けた私の身にもなってほしいわ。
私は一見するときつそうに見えるけど、中身は普通の十六歳の令嬢なのよ。世間からそんな風に言われ続けたら、普通に傷つくのよ。何度枕を濡らしたと思っているのよ。
それに一度も婚約者に会ってもいないのに、しっかりと妃教育だけは行われており、私には自由時間さえなかったのだから。
王太子殿下に会ったら、絶対に婚約解消をしてもらうと心に決めている。
「お父様、それで、お会い出来るのはいつでしょうか?」
「明日だ。明日なら会って頂けるそうだ」
明日ですって?本当に非常識な人だわ。
「分かりました。明日王宮へ伺います」
「ああ、朝しか時間がないそうなので、九時には屋敷を共に出よう」
もう一度言わせてもらおう、なんて非常識な奴――。
「あなた、そんなにお忙しいのであれば、お会い出来る時間もあまりないのではないの?」
お母様が呆れたように聞くと、お父様が大きく頷いて言った。
「そうなんだよ、五分だけと言われているんだ。でもこの機会を逃したら、今度は一年後しか会えないそうなんだよ」
馬鹿なの?父は本当に馬鹿なの!?
「…………」
「…………」
お母様もお兄様も私と同意見なのだろう。
「お父様、この婚約はなかったということで、宜しいですわよね」
「な、何を言っている。お前は一度もお会いしていないからそんな事が言えるのだ。殿下は本当に素晴らしいお方だぞ」
「…………」
「…………」
「…………」
明日はお父様を置いておいて、私から婚約解消の話を進めるしかなさそうね。私はお母様とお兄様と目を合わせて了解を得た。
翌朝、支度に時間がかかったのはお父様だった。
「殿下に会うのだから手土産が必要だ」
「殿下に会うのだから口臭に気をつけねば……」
置いていこうかとも思ったが、連れて行かないわけにもいかずに、馬車にお父様を押し込んで何とか時間までに間に合わせたわ。
王城の庭園のテラスに案内され、殿下がお見えになるのをずっと待っていたが、三十分経っても人一人現れなかった。
遠くに見える美しい花々が私は気になり、立ち上がり父に言った。
「お父様、私は少し庭園を散策させてもらうわ」
「だが、もういらっしゃるだろう」
私の家はドヴァーグ侯爵家だ。侯爵家の中でもドヴァーグ家は長い間、国に多大な貢献をしてきた由緒正しき家柄でもある。百年ほど前に、我が家のご先祖様は熊の魔獣に襲われている時に、当時王太子だった者が颯爽と助けてくれたそうだ。
その頃から我が家の家訓は「如何なる時も王家に尽くす」と言うものだ。
家訓の如く、父は王家を常に敬っているからこのような態度ではあるが、本来の父は外交に長けた優れた人物だ。今までに無理難題を押し付けてきた諸外国の対応をしてきたのは、他ならぬ父なのだから。
それに母は名のある商会をいくつも成功させた商才に非常に優れた貴婦人である。その二人の優れた遺伝子を余すことなく受け継いだ兄は、益々侯爵家を発展させるだろう。兄は、度胸と優秀な頭脳を持っており、神童だと幼い頃から言われているほどだ。
私だって学校では常に成績はトップだし、変な婚約者のせいで陰口は言われているが、賞賛の声だってかなりあるんだから、こんな扱いを受けていいわけがない。
直ぐに婚約解消をして自由になってやるんだから。
そう思いながら王宮の庭園を歩いていたら、かなり遠くまで来てしまったようだ。
えっと、ここはどこかしら?