君が断罪してくれるなら、喜んで
伯爵が自己中心的すぎて、胸くそ悪いかもしれません。
あのとき、侯爵に「預かってくれないか」と言われた瞬間、心の奥がかすかに震えた。
彼が、あの軽やかな口調で「ちょっと厄介なモノを抱えちゃってさ」と笑って言ったのを、今でも覚えている。
厄介なモノ──それは、亡命してきた医師の一族だった。
彼らの技術も知識も、国内で貴重な存在になるだろう。
それと同時に、価値があるものはトラブルを招き込む。
他国からの干渉をどうするか、国としてどう動くかという難局に立たされるかもしれない。
長年、彼の笑顔を見つめてきた。
この手で触れることはできず、友情の仮面を被って、傍にいた。
けれど──ようやく彼が、私に“何か”を託してくれたのだ。
彼が、私に頼った……! それだけで、全てが報われたような気がした。
私にとっては単なる口実、ただの贈り物。
彼が手ずから運んできた贈り物。それを大事に箱に詰め、鍵をかけて、屋敷の奥に飾ろう。
……それが、今の温室だった。
私と彼は、同じ学友として若いころを過ごした。
彼はいつも人に囲まれ、誰にでも気さくで、陽の光のように明るい存在だった。
私がどれほど彼の声を、目線を、気まぐれな笑みを追いかけていたか、本人は知らないだろう。
いや、気づいていたかもしれない。
気づいた上で、気づかないふりをするのが彼だ。そういう人間だ。
一族を預かるなどという任務は、本来なら重責であるはずだった。
だが私は、内心、嬉しくてたまらなかった。
これで彼と連絡を取る口実ができる。
定期的に報告を聞きに来るだろう。何かと理由をつけて屋敷に顔を出すかもしれない。
そう思えば、監禁という形にしたのも、ごく自然な流れだった。
初めは、穏やかな隔離生活を装った。
先代が道楽で作った温室、オランジュリーを改修することにした。
王太子から通訳をが派遣され、薬草を育てるエリア、研究スペース、居住空間をどう分けたいかを聞き出した。
必要な研究器具も与えた。逃げようと思えば逃げられるような「余白」を、あえて残していた。
それが人道的であると信じたかったし、何より、私自身が罪悪感を感じたくなかった。
けれど、それでも彼らは逃げなかった。あるいは、逃げられなかったのかもしれない。
あの長老は、何かを悟ったように黙って研究に没頭していた。
周囲の若者たちは、はじめのうちこそ戸惑っていたが、やがてその沈黙に慣れた。
いや、慣れるしかなかったのだろう。
逃げ道のない温室に、緑と硝子の美しさだけが満ちていく日々。
必要なのは、少しの飴と鞭、それと時間だった。
人は“囲い”に慣れる。
開かない扉を見つめるより、そこに咲く花を数える方が楽だから。
しばらくして落ち着いたころ、王太子がお忍びと称して訪ねてきた。
侯爵が彼を案内してきて、温室が見えるガゼボで、三人でお茶を囲んだ。
まるで学生時代に戻ったようで、心が弾むひとときだった。
やがて、いつの間にか国からの監視役が送り込まれ、庭師としてこの屋敷に居ついた。
私は人道を語るつもりはない。
けれど、一族は生き延びている。
国を追われ、信頼を失い、すべてをなくした彼らが、少なくともここで生を繋げてきた。
死ぬよりは、よほどマシだと信じて。
そうして、十年が過ぎた。
今では、あの温室のそばにあるガゼボが、私と彼の定位置になった。
彼は変わらず軽い口調で話し、私はその向かいで珈琲を淹れる。
使用人に邪魔されぬよう、私は珈琲の淹れ方を専門家に習い、マスターした。
彼がいつものようにカップを持ち上げ、口元に笑みを浮かべる。
とりとめのない話をしながら、ときおり視線はあの硝子の建物に向かう。
温室を見下ろすこのガゼボで、「まだ研究してるのかな。あの長老、随分老け込んだね」
からかうように笑う彼の目は、かつてのように真っすぐではない。
ちらと温室を見て、すぐに視線を逸らす。罪の意識か、面倒を避ける本能か。
けれど、私はその動き一つ一つが、愛しくてたまらない。
彼は知らないだろう。
私が、彼の笑い方、声の調子、沈黙の重さの違いさえ、すべて記憶していることを。
不躾に眺めていると思われないよう、耳と肌が委細漏らさず感じ取る。
彼がここに来た日、何を着ていたか、どんな香りをまとっていたかも──私は全部覚えている。
彼の目線が温室を避ければ避けるほど、私はそれに快感を覚えるのだ。
「もう何年も前のことだが、長老の薬のおかげで、長男の言葉が戻っただろう」
「言語中枢を活性化する薬だったか。舌下に塗布すると言っていたな」
「そうそう、それを五年も続けてね。少々、活性化しすぎたかもしれん。
今では、当主の僕の方が説教される始末だよ」
そんな会話を交わすとき、私はそっと彼の横顔を盗み見る。
あの目が、わずかに揺れる。
それを見るたび、私は胸の奥に針を刺される。
「長男が後継者に戻れたら、我が侯爵家は安泰だ。
……そうすると、今は学生の三男をどうするか考えないといけないんだけどさ」
「妾の子か」
「元婚約者の子どもと言ってくれよ」
「……」
彼は、やはり私のことなど見ていない。
ここから眺めていても、一族をどうにかしたいとは、本気で思っていないのだろう。
__彼は私に背を預けた。そして私は、代償を支払った__
わかっている。
お前は、ただ、責任の一部を私に預け、気楽な距離を保ちたいだけ。
そして私は、それを承知の上で、喜んでお前の望む役を演じてきた。
なぜ、あのとき引き受けたのか。
今となっては、答えは明らかだ。
私はお前に、消えない何かを刻みたかった。
たとえ、その代償として誰かの人生を閉ざすことになったとしても。
その罪に目をつぶることで、お前の隣にいられるのなら、それでよかった。
…そう、自分に言い聞かせてきた。
けれど、ふとした瞬間に思う。
お前が本当に、私を「友人」とすら見ていなかったとしたら?
もし、私がいなくなっても、お前が誰か他の者に一族を預けるだけだったとしたら?
私のしたことは、ただの愚行だったのではないかと。
この執着のために、私は何人もの人生を「研究材料」に変えた。
何人もの人生を切り刻み、沈黙の中に押し込めた。
そしてその事実は、お前に知られることなく、今も続けている。
珈琲の香りの向こうに、硝子越しの世界が揺らめいて見える。
温室の中では、今日も誰かが黙々と何かを記している。
老いた長老か、その弟子か。もう私にもわからない。
「お前がいなかったら、どうなっていたかね」
そう言ってお前が笑う。私は内心で思う。
──いっそお前も、あの温室に入れられたら……どれだけ素敵だろうか、と。
そうすれば、もう逃げることもない。
誰にも渡さない。
研究の被験体は、誰よりも美しいお前自身。
私が診てやる。
心を、血を、骨のひとつひとつまで、丁寧に──。
だが、私は微笑んだまま、カップを差し出す。
私たちの茶会は続く。
裏切りも、狂気も、誰にも気づかれないまま。
お前が「友情」だと思っているものの中で、私は今日も甘く、ゆっくりとお前を支配している。
それで、いいのだ。
ここに座るお前の眼差し。
この静かな午後。
この世界を知るのは、私だけでいい。
諸々の元凶はこの人でした! 誰も、そこまでやれとは言ってない……。
温室を改修している時点で、伯爵の息子は最終学年(成人間近)なのですが、自分の家で何が起きているか全く理解していません。
息子の結婚と家令(侯爵の三男)の就職は、この後半のお茶会の後になります。