第一話:穴の開いた記憶
雨の匂いがした。
夏の終わりを告げる、湿った風と濡れたアスファルトの香り。まるで何かが終わった後に訪れる、誰にも知られない静寂のようだった。
榊翔一は、見慣れたはずの天井をぼんやりと眺めていた。
何かが、おかしい。
時計の位置が違う。掛け布団の模様が微妙に違う。ベッド脇の棚には、妹の写真がない。
「……千景?」
つぶやいた名前が喉にひっかかった。胸の奥がじわりと熱を帯びる。
階段を下りると、台所からカレーの香りが漂ってきた。そして──
「おかえり、兄さん」
制服姿の少女が、キッチンでタオルを手に立っていた。
榊千景。
その声。その顔。その笑顔。
死んだはずの、妹だった。
翔一の記憶では、彼女は十年前に交通事故で命を落とした。葬儀も、火葬も、自分の手で行った。遺影を抱えて泣き崩れた。あれは夢ではない。確かな“過去”だった。
それなのに、彼女はそこにいた。何もなかったかのように、生きていた。
「……千景?」
「何、変な顔して。仕事疲れてるんじゃない? カレー、あと10分でできるから」
いつもの日常のように振る舞う彼女に、翔一は返事をすることができなかった。
その夜、彼は父の書斎で、見覚えのない木箱を見つけた。
鍵は錆びついていたが、簡単に外れた。
中に入っていたのは、古びた懐中時計だった。
重厚な金属製で、蓋には複雑な紋様が刻まれている。蓋を開けると、中の針は止まったまま。しかし、中心からはかすかに“音”が鳴っていた。
それは鼓動のようでもあり、遠くの鐘のようでもあった。
外装には、銀色の文字でこう刻まれていた。
E.C.H.O.
Entangled Chrono-Harmonic Oscillator
──その瞬間、翔一の脳裏に言葉が流れ込む。
「過去は、選びなおせる。」
世界はすでに、歪みはじめていた。
⸻
【次回予告】
第二話:裂け目
過去を変える装置──E.C.H.O.が起動する。
翔一は十年前の“あの瞬間”に触れ、世界は静かに揺らぎ始める。