62 天使の胸の内
時は少し遡って、料理長の機嫌が良かったとされる、あの日の豪華な夕食後───。
二枚のカードを差し出すミシェルの表情を、ジェレミーは注意深く観察した。
片方のカードに手を伸ばすと、ミシェルの眉が微かに動いて緊張感を滲ませる。
もう片方のカードに手を伸ばすと、口角が僅かに上がった様に見えた。
「コッチだっ!!」
最初に選ぼうとした方のカードを引き抜くと、ミシェルの顔が絶望に染まった。
彼女の手の中に残ったカードがジョーカーだったから。
「ええ~~っ!? どうして分かっちゃうの?
二人共、心を読む魔法でも使っているとしか思えないわ」
ブツブツと文句を言いながら、すっかり冷め切った紅茶を一口飲んだミシェル。
(頑張って顔に出さない様にしていたつもりなんだろうなぁ)
心の中で呟いたジェレミーは、ふふっと笑みを零した。
悔しそうにしているミシェルの姿も可愛くて仕方が無い。
斜め前に座っているクリストフに視線を向けると、彼もまた愛しい者への眼差しでミシェルを見詰めていた。
以前のジェレミーの助言が功を奏したのか、クリストフはミシェルに対する想いをとても分かり易く表現する様になった。
それに伴って、最近ではミシェルの方も、これまで以上に親密な感情をクリストフに向けている様に見える。
(これはもしかすると、もしかするかも!?)
二人が今迄以上に仲の良い夫婦になり、ミシェルが一生この邸にいてくれる。
そんな理想の未来に一歩近付いた様な気がして、ジェレミーの胸は弾んだ。
「ジェレミー、そろそろ就寝だ」
クリストフにそう言われたジェレミーは、後ろ髪を引かれながらトボトボと自室へと向かった。
(もう少し二人を見ていたかったのに…)
翌朝のデュドヴァン邸は、ピンク色のハッピーな空気に包まれていた。
使用人達は皆んなとても嬉しそうで、ミシェルとクリストフは目が合う度に少し照れた様に頬を染めて、視線を逸らす。
「ねぇ、昨日はあれから何かあったの?」
近くを通りかかったチェルシーに尋ねると、彼女はジェレミーにそっと耳打ちした。
「昨夜、旦那様と奥様が初めてご夫婦の寝室をお使いになられたのですよ」
その言葉が意味する事は、ジェレミーにも理解出来た。
幼い彼には本格的な閨教育は始まっていないが、円満な夫婦関係を築き、子を成す為には同衾する事が必要だと言う事くらいは分かっているのだ。
夫婦の寝室で具体的に何が行われるのかは、まだちょっとだけしか知らないけれど。
※その『ちょっと』がどの程度なのかは、皆様の想像にお任せしよう。
(これで母様は僕達の側にずっと居てくれるかも……)
ただ、これ迄は自分が独り占めしていたミシェルの深い愛情を、父と分け合う事になってしまうのは、少しだけ淋しい様な気もしていた。
「この分だと、近々ジェレミー坊っちゃんの弟か妹が生まれるかも知れませんねぇ」
悪気無くそう言った騎士団の新人を、微妙な表情をしたレオが肘でつついた。
新人はハッとして慌てて口を噤む。
「そうしたら僕もお兄ちゃんになるんだよね。楽しみだなぁ」
気にしていない事を伝えたくて、ジェレミーは二人に笑顔を向けた。
ジェレミーが本当はクリストフの弟だと言う事を知らない者は多いが、現侯爵夫人であるミシェルと血の繋がりが無いと言う事は周知の事実。
ミシェルが男児を産めば、ジェレミーの立場が脅かされる可能性も有るので、きっとレオは気を遣ったのだろう。
(まあ、弟が生まれたとしても、あの母様が僕を蔑ろにするはずは無いけどね)
レオの気遣いは有難いが、ジェレミーは両親の愛情を信じているので、その点についてはあまり心配していない。
実は爵位の継承にもあまり執着は無いのだ。
もしも弟が出来て、彼がこの家を継ぎたいと言うのなら、自分はサポートに回っても良いとさえ思っていた。
今迄勉強して来た事が無駄になってしまうのは、少しだけ残念だけど。
それより、何より───、
(母様に似た子が生まれたりしたら、弟でも妹でも、溺愛する自信しか無い!!)
まだ見ぬ弟妹に思いを馳せたジェレミーは、思わず頬を緩ませた。
(でも……、父様も母様も、僕に気を遣って子供を作ろうとは思わないかも……)
そこでジェレミーは二人の背中を押してあげる事にしたのだ。
それが、例の爆弾発言である。
(全く、世話の焼ける大人達だなぁ)
紅茶を噴き出して咽せている父を見ながら、ジェレミーは心の中でクスリと笑った。
それから数ヶ月が経過したある日、ジェレミーはクリストフに応接室に呼び出された。
応接室に入ると、クリストフと向かい合って、ミシェルもソファーに座っていた。
「そこに座りなさい」
指定された席は、いつも通りミシェルの隣。
「何か大事なお話があるのですよね?」
「ああ、実は…、ミシェルが懐妊した」
ジェレミーの反応を窺う様に、ジッと目を見ながらそう言ったクリストフに、満面の笑みを返した。
「本当ですか!? おめでとうございます!」
心からの喜びと、ほんの少しの淋しさを抱えながら、ジェレミーは祝いの言葉を口にした。
「ありがとう」
嬉しそうに答えたミシェルは、ジェレミーの頭を優しく撫でる。
「そこで、予めお前に話しておかなければならない事がある。
もしも男児が生まれたとしても、私達は、この家をお前に継いで欲しいと思っている」
思わぬ言葉を掛けられて、ジェレミーはハッと息を呑んだ。
隣を見上げると、ミシェルも柔らかな微笑みを浮かべながら頷いている。
「でも、僕は───」
「知っているとは思うが、私達はお前を本当の息子だと思っている。
それに、お前には領主の資質がある。
その年齢にしては頭が良いし、それに驕らず努力も惜しまない。
優しいだけじゃ無く、時には冷酷な判断も出来るお前の性格も、人の上に立つ者にとっては必要不可欠な能力だ。
剣術や魔法など、まだこれから身に付けなければならない物も多いが、私に似て魔力量も多いし充分な才能があると思う。
ミシェルの子では無いからと、余計な雑音をお前の耳に入れる者もいるだろうが、辛くても乗り越えて欲しい。
私達も出来るだけサポートはする」
ジェレミーは本当に爵位を継げなくても良かったのだ。
だけど、父が自分の努力を認めてくれていた事、期待してくれている事が思った以上に嬉しくて───。
彼の瞳からは一粒の涙が零れた。
慌てて手の甲でそれを拭ったジェレミーを、隣から伸びて来た華奢な腕が抱き寄せた。
バニラの様な甘い香りが微かに鼻腔をくすぐる。
「うふふ。ジェレミーは泣き虫さんね」
「な、泣いてませんよ。
それに、僕はもう直ぐお兄ちゃんになるのですから、いつまでもこんな風に母様に甘えてばかりいたら、笑われてしまいます」
「あら、そんな淋しい事言わないでちょうだい。
それじゃあ、私がジェレミーにハグをして欲しい時は、どうしたら良いの?」
そう言ったミシェルは、ジェレミーを益々強く抱き締める。
いつの間にか、ジェレミーの心の中に確かにあったはずの『少し淋しい』という思いは綺麗に消え失せ、家族が増える事を待ち望む気持ちだけが残った。
ジェレミーは自分の胸が温かな何かで満たされていくのを感じながら、母の優しい腕の中でそっと目を閉じた。




