17 少し早めの入籍
『聖女に……、若しくは王太子の婚約者に、戻りたいか?』
そう質問した侯爵様の表情からは、何も読み取れない。
もしかしたら、厄介な存在である私を、返品出来るチャンスだと思っているのかも知れないけれど……。
「嫌です。絶対に」
反射的に私は答えていた。
「そうか。いや、実はシャヴァリエ辺境伯からも警告文が届いていたんだ」
「お義父様から?」
「ああ。
君を王家に売るのは許さないと。
婚姻を取り止めるつもりならば、ミシェルは自分達が守るから、速やかに身柄をシャヴァリエへ引き渡して欲しいと。
シャヴァリエ家は、随分と君を大切にしているらしいな」
「ええ、そうですね。ありがたい事に」
「心配するな。君が望まないなら、王家には渡さない。
方針を決める前に、本人の意向を確認したかっただけだ。
王家なんかよりも、シャヴァリエを敵に回す方がよっぽど厄介だからな」
侯爵様は微かに口元を緩めた。
「ふふっ。そうかも知れませんね」
彼等は私が知る中で一番優しくて、同時に一番怖い人達でもあるのだから。
「では、君を王都には戻さない事を前提に、これからの事を話し合いたい」
「ご迷惑をお掛けしますが、宜しくお願いします」
深く頭を下げると、侯爵様は鷹揚に頷いた。
「王命に記された入籍の期限まではまだ少し余裕があるが、すぐに籍を入れたらどうかと考えている。
私は王家に『妻を差し出せ』と理不尽な要求をされても、突っ撥ねられる程度の権力は持っているつもりだが、これが『婚約者』の段階だと少し微妙な所なんだ。
強引な手段を使わせない様に、婚姻を済ませてしまいたいのだが、構わないだろうか?」
「あ、はい。侯爵様がそれで宜しければ」
「うむ。フィルマン、書類をここへ」
「はい、旦那様」
テーブルの上にスッと差し出された婚姻誓約書は、侯爵様の記入欄は既に埋まっていて、私のサインを書くだけの状態になっていた。
随分と準備が良い。
「これを使え」
旦那様が書類の隣に置いた万年筆は、蓋の部分に私の瞳の色に似た水色の宝石が散りばめられていて、男性が使う物にしては可愛らしいデザインだ。
「ありがとうございます」
とても書き味が滑らかなその万年筆を使ってサラサラとサインをし、侯爵様に渡す。
彼は内容を再確認する様にサッと書類に目を通し、フィルマンに戻した。
「すぐに提出を」
「かしこまりました」
万年筆をお返ししようと差し出すと、侯爵様は私の動きを片手で制した。
「それは、君に」
「え?」
「この婚姻は契約なので、結婚指輪などは用意しないし、挙式も行ってやれない。
その代わりの記念品だと思って欲しい」
「ありがとうございます。
大切に使わせて頂きます」
この婚姻の意味は理解しているし、挙式も指輪も最初から期待などしていなかったのだが、まさかその代わりのプレゼントを用意してくれていたとは……。
(女性が苦手で、私を妻として愛するつもりは無くても、疎まれている訳ではないみたいね)
侯爵様の不器用な優しさに、ほんのりと胸が温かくなった。
「いや、礼を言うのはこちらの方だ」
「?」
心当たりの無い私は、首を傾げる。
「今朝、ジェレミーの怪我を治癒してくれたと聞いた。
ありがとう」
お礼を言われるのって嬉しいものなんだなって、改めて感じる。
そんな当たり前の事を忘れかけてしまうくらい、聖女だった頃の私の生活は異常だったのだ。
「ああ、その事でしたか。お役に立てたなら、嬉しいです。
あの、もし良かったら、侯爵家の騎士団で怪我人が出た時とか、私に治癒をさせて頂けませんか?」
丁度良い機会だと思ってそう提案すると、侯爵様は意外そうに目を見開いた。
「良いのか?」
「ええ、勿論です」
「そうか……、それはとても助かる。よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします!侯爵様」
私の言葉を聞いた侯爵様は、何故か微かに眉根を寄せた。
「……その、侯爵様という呼び名だが、」
「はい?」
「書類上とは言え夫婦になるのだから、少し変じゃないか?」
ん?
これに似た事を、ごく最近、他でも言われた様な……。あ、ジェレミーだわ。
『自分の息子をジェレミー様と呼ぶのは変ではありませんか?』
不満そうにプクッと頬を膨らませたジェレミーを思い出して、思わず口元が緩みそうになる。
親子って、妙な所で似るのね。
そういえば、侯爵様のお名前ってなんだったかしら?
確か……、そう、クリストフ・デュドヴァン様。
じゃあ、今後はクリストフ様とお呼びすれば………って、やだなぁ、私ったら何を考えてるの?
それは無いわよね。流石に。
「……では、今日からは旦那様とお呼びしますね!」
「あぁ、いや、……うん、まあ、それで良い」
「?」
侯爵様改め、旦那様は、なんとも複雑な表情で頷く。
部屋の隅に控えていたフィルマンは、何故か笑いを堪えて肩を震わせていた。




