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ハードボイルド青春小説


 津川ありさは薄いネイビーブルーのワンピースを着こなしてやって来た。僕はその姿を見て、すぐにありさだと思った。

 九月の風が新宿アルタ前を吹き抜けて行った。

「ねぇ、久し振り」

「ああ。うん」

「どれくらいぶりになる?」ありさが笑って目の横にシワを寄せて言った。

「十年くらい? ちょっと分からないけれど」

「もう、そんなか」

 ありさは男っぽい口調でそう言った。新宿は苦手だから、四ツ谷に行こうとありさが言う。

「良いトコ見つけたの。あなたも音楽好きだったよね?」

「ジャズばっかり」

「じゃあ、あなたにはぴったり」

 品の良い着こなしをしたありさは、新宿でも存在感があった。ありさの提案に乗って、四ツ谷に移動することにした。

「この十年何を考えていたの?」地下鉄に乗り込む際に、ありさが僕に聞いた。

「何も。仕事の事、金の事、生活の事」

「本当にありきたり。もっと楽しい人になれば良いのに」ありさはそう言って、可笑しそうに笑った。


 地下鉄に乗ると、ありさは僕の隣から少し距離を離して座った。ありさとは、大学のジャズ研究会で出会った。ありさはジャズ研究会のサークル員だった。僕もまたサークル員だった。

 ありさも僕も真面目なサークル員ではなかったが、偶然同じ同郷から出て来たと言う事で、少し親しい仲になった。特に目立つ何かが起きた訳ではない。同郷のあの古本屋は目立っているとか、地元の人間しか知らない共通点の話しで、会話が弾んだのだ。

「ちょっと背伸びた?」ありさが僕に聞いた。

「そんな事ないと思うけれど……」

「体格も良くなった感じがするわ」

 謙遜している僕に、ありさが感心して細い息をスウッと吐いた。僕は、その様子を見て昔のままのありさだと強く思った。

 九月になっても、暑い日が続いている。ありさが言った「あなたにピッタリ」な場所とは何なのであろうか。背の高いありさは、地下鉄の座席で目をジッと瞑っていた。

 昔から落ち着きのある女だった。僕はまたそう強く思った。


 ありさが言った、僕にピッタリの店と言うのは、新しく四ツ谷にオープンしたジャズ・バーだった。この言い方は正確ではないかも知れない。ありさが言うには、元々は老舗のジャズ・バーであって、その店のオーナーが長く病気で臥せっていたが、小康を取り戻したので、内装を変えて、リニューアルオープンをしたのだと言う。

 その店、「グラン」の扉を開ける時に、ありさの手に一瞬触れてしまった。ありさの手はとても冷たかった。

 ありさの言った通り、「グラン」の中では、終始ジャズがかかっていた。それはピアノ・トリオの曲で、僕は演奏者の名前を知らなかった。

 ありさは、リラックスした様子で、それもまた名前の知らないカクテルを飲んでいた。この様子からすると、「グラン」に限らず、こういう店にはよく足を運ぶのだろうか。僕はそう思っていた。

「この十年何をしていたの?」ありさが少し頬を赤らめて言った。

「さっきもそれを聞いたね」

「いいの。適当に言って。あなたと色々話しをしたい気分だから」

「何も上手く行かなかった。いや……。元から上手く行かせる気なんてなかったのかも知れない」

「ずいぶんと詩的な喩えね。安藤くんの事、ちょっとずつ思い出して来た」

 ありさは、楽しそうに笑った。ありさは、少し笑みを作って笑う事はあったが、そんなに大きく笑うのを見るのは、初めてだった。

 僕が感じたのは、ありさの「辛さ」だった。その笑みには、微かにストレスの余韻があったのだ。急にありさから会いたくなった、とメールが来たが、顔を合わせない十年の間に、ありさには何か色々あったのかも知れなかった。

「このお店は随分と涼しいね。外の暑さが嘘みたい」僕がありさに勧められたカクテルを少し飲んで言った。

「そう?」ありさが聞いた。

「大学を出てからね。色々なアルバイトをしたよ。印刷の仕事、スーパーの棚卸し、コンビニの夜勤とか」

「うん」ありさが俯いて言った。

「どれもこれも、やる気が出なかった……。自分の問題だと思って随分と悩んだよ。心療内科に行って、カウンセリングみたいな事を勧められたしね」僕は正直に言った。

「カウンセリングって?」ありさが聞いた。

「思い付いたことを色々と少しずつ話して行くんだ。大人の時から遡って子どもの頃まで」

「へえ。何か意味なさそう」

「その通り。全然意味なんてないんだ。グループ・カウンセリングというのも、二回で行かなくなったよ」

 僕が妙な自信に満ちてそう言うと、ありさが愉快そうに笑った。こうしてありさと話しをするのは本当に久しぶりで、僕は段々と学生時代の気分へと戻って来た。

 ありさはネイビーブルーのワンピースの肩元を直した。学生時代のありさは、何処か真摯だった。他の女学生たちは、どこか垢抜けない俗っぽさがあったが、その頃からありさは、他人の眼をじっと見つめ真剣に話しを聞く癖があった。

 僕も話しを誤魔化したりするのは得意ではなかったから、ありさとは昔から気が合ったのかも知れない。

「津川さんは、十年間何をしていたの?」僕がカクテルを回して言った。

「化粧品の受け付けとか」ありさが言った。

「化粧品会社の受け付けの事?」

「そう。にこにこして黙って座っていれば良いから、私には合っている仕事よ」

「それは良いね」僕が感心して言った。

「そうそう」

 ピアノ・トリオの曲が、テナーサックスから、トランペットへと変わって行った。ありさとの会話が佳境に入り、僕も酔い始めていた。それは、慣れないがとても楽しい夜だった。



 ありさとの夢の様な時間は過ぎて、僕は再び仕事を探し始めた。

 採用された仕事は食品スーパーのレジ打ちであった。レジに置かれた商品のバーコードを読み込んで、黙々とレジを打つ。初めから楽なイメージはなかったのだが、やはり楽な仕事ではなかった。 

 何より、店長の「田村」という若い男に、目を付けられてしまったらしく、ちょっとしたミスでも叱責が飛んで来そうな雰囲気になっていたのだ。

「いらっしゃいませ。ポイントシールはお持ちですか?」

 丁寧に一人一人のお客さんの応対を心がける。僕が住んでいる街は比較的、高齢者が多いので、接客にはそれなりに気を使った。

 昼の休憩時間になり、僕は裏の喫煙所で一本タバコを深々と吸った。張り詰めていた気が、ほぐれる瞬間である。

 タバコを吸ってしまうと、残りの十五分物思いにふけった。大学卒業後、僕は就職しなかった。大学在学中の、三年と四年生の時に大病をして、皆が就職活動に励んでいる時期に、僕はずっとベッドで寝ていたのだ。

 幸い体も回復し、大学も教授たちの計らいで卒業できたが、アルバイトを重ねるライフスタイルで、三十歳過ぎまで来てしまった。

 仕事さえあれば、何でも良い。僕は自分の仕事に誇りを持っていたが、世間の目が気にならないこともなかった。

「あれ、安藤さんのタバコってホープでしたっけ?」

 女性の声の元を振り返ると、食品スーパーで同僚の、「谷田真希」が立っていた。

 谷田もまた、休憩時間にタバコを吸いに来た様子だった。谷田は、僕よりずっと歳下の、スリムで小柄な女性である。

「そろそろまたタバコが値上がりするって噂でしょう? ホープだったら、少ない本数でそんなに吸わなくなるので、ホープにしてみました」

「へえ、また値上がりするんですね……。ラークは止めたんですね」

 谷田は言い終わる間もなく、スリムなタバコにライターで火を点けた。

 フッと、薄いハッカの匂いが辺りに広がった。

「田村さんは?」僕が聞いた。

「詰め所にいます。ここのところ、他のスーパーで万引きが多いそうなので、店内の照明を来週から明るくして行くそうです。防犯対策だそうです」谷田が、灰皿の上で、丁寧に吸ったタバコを揉み消しながら言った。

「そうですか……。私たちも気を付けないといけないですね」僕は言った。

「はい。午後も宜しくお願い致します」谷田は言うと、足早に職場のスーパーの中へと戻って行った。


 仕事を終えて、帰路に着いていた。

 しかし、一人暮らしのアパートに帰っても、これと言ってすることもない。

そう考えると、ひたすらにむなしさが募るのだ。僕はふと目に付いた繁華街の牛丼屋に入ることにした。考えてみると、牛丼や親子丼の類いはほとんど食べない。

 食べ物の好き嫌いはあまりないが、働いて身体を再び動かし始めた為か、やたらと腹が減る様になった。

 牛丼が運ばれて来ると、紅生姜を牛肉の上に乗せて、その上にさらに七味唐辛子をパラパラと振りかけた。「こうすると旨い」そう教えてくれたのは、大学時代の数少ない友人の、「村山謙介」だった。

 村山もまた、僕と同じジャズ研究会の部員の仲間だった。僕の少ない貴重な友人の一人ということになる。

 村山の事を思い出すと、背筋を撫でられた様な気分になった。

 村山の電話番号は、スマホに入っていただろうか? そう考えると気になって仕方がなくなり、行儀が悪いが、牛丼を食べ終えてすぐにスマホを開いた。

 「む」の行まで、電話帳をスワイプして行く。やはり、村山の電話番号はあった。しかし登録したのは、とうに以前のことだったので、電話番号に繋がるかは、疑問があった。

 ラインの「ともだち」に同期されていなかったので、ずっと村山の電話番号の存在を忘れて意識していなかった様だった。

 果たしてこの番号にかけたら、村山は出るだろうか。そう思い、僕は牛丼屋を出た。

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