016:神の骨(ディバイン・ボーンズ)
「支度金の一部として、こちらを用意しました」
プリンスは長方形の箱の蓋を開けた。
紫の絹布の上に、白っぽい短剣。ナックルガード付きの柄はよく見かける軍用モデルだ。鍔も片刃作りの刃も、すべてが白っぽい。
「手にとってよくご覧ください」
「では遠慮無く」
晶斗は躊躇することなく、箱から短剣を取りあげた。
ユニスの方が緊張した。短剣といえども武器だ。フレンドリーな雰囲気でも、プリンスは皇族の皇子さま。政治家としては帝国最高位の宰相閣下である。
その御前で、晶斗のような身元が怪しい自称:護衛戦闘士に、鞘の無い剥き出しの短剣を持たせて良いものか。
近くに執事とメイドが控えてはいるとはいえ、護衛官はドアの外だ。
「ガードナイフだよな。しかし、それにしては……?」
晶斗は右手で白い短剣の柄を握っている。
ガードナイフは護衛戦闘士が装備するスタンダードな武器だ。ユニスも、装備品を売る店ならどこでも買える。
目をすがめて短剣を検分していた晶斗が、ふいに、眼前に白い刃を近づけた。食い入るように凝視している。
「どうしたの?」
晶斗は短剣から顔を上げた。
「いや、重さと手触りが……まさか、『神の(ディバイン)骨』か!?」
「そうです」
プリンスはうなずいた。
「ディバインボーンズ!? これが!?」
ユニスは目を見張った。
ディバイン・ボーンズと言えば、遺跡地帯でしか産出しない超レアな特殊金属。そのほとんどがナイフや剣など武器に加工される。神の骨専門の鍛冶師が鍛えれば、この世でもっとも硬い刃になるという。
ゆえにディバイン・ボーンズと言えば『神の骨製の武器』という意味も持つ。
「そりゃすごいんだぜ。最高硬度のダイヤモンドでも、スパスパ切れるからな」
晶斗によると、ディバインボーンズは軍隊でも上級将校の特別任務にしか貸与されず、金さえ払えば何でも買えるという闇市場でもめったに出回らないという。
「東邦郡の軍事博物館には置いてあるが……。すげえな、こいつは本物だ」
晶斗は刃や柄の角度を変えては、眺め回している。
「鉱石の原石なら、専門店で見かけたことがあるけど」
ユニスも触ってみたい。しかし、晶斗が夢中で見ているから言い出せない。
「気に入っていただけたようですね。では、そのままお持ちください」
プリンスはお茶菓子でも進めるかのように気軽に告げた。
「は? これは国宝級のモノだろ?」
晶斗が薄気味悪そうに顎を引いた。冗談だと思ったのだろう。
ユニスもそう思った。国宝級のお宝を初対面の相手に渡そうとするなんて、相手がプリンスでなければ、詐欺として保安局へ通報するところだ。
「確かに希少価値は高い物ですが、私のコレクションですので、譲渡するのも私の自由です。問題はありません」
「国宝級がコレクション……!」
ユニスが絶句していると、
「そして、シェイナーのお嬢さんへの報酬は『世界の迷図』を踏破する権利――では、いかがでしょうか?」
プリンスの言葉がユニスの脳に浸透するまで、約1秒。その間にユニスの意識は月まで飛んで「きっと夢だわッ!」と叫んでから、地上へ戻ってきた。
ユニスは、ガバッ! とテーブルに乗り出した。
隣の晶斗が「うわッ!?」と露骨に引いたが、かまうものか。
「あの『フェルギミウス』が創造したという、世界の迷図ですよね!?」
それは、大陸創造の神話。
太古、この惑星に降り立った三柱の神々『イーシャ』『コルセニー』『フェルゴウン』が、ルーンゴースト大陸を造ったという。
その神々の主神フェルゴウンの子孫がシャールーン帝国皇家の始祖となった。
皇家の祖神フェルギミウスである。伝説を信じるならば、フェルギミウスは皇家の先祖、プリンスはその直径子孫だ。
またフェルギミウスこそすべてのシェイナーの初めであり、世界の理をコントロールする能力を人間に与えた神だという説もある。
「あれは確か皇族専用の秘儀中の秘儀、国家登録されたルーンゴースト学術院のエリートシェイナーですら、踏破はおろか、目にすることさえほとんどかなわない、機密中の国家機密では……!?」
プリンスと視線が遭った。
藍色の瞳が、ひたとユニスを見つめている。
ユニスの心臓が、跳ねた。
きっと、これまでの人生で特大の鼓動。
呼吸が詰まった。
魅入られる――プリンスの眼に。
――あれ? なんか、動けない?
瞬きすらできない。まるで身体が石になったようだ。
プリンスが右手を軽く振った。座れとの合図。
ユニスはテーブルに乗り出していた姿勢から、元に戻った。
――おかしいわ、どうして体が勝手に動くの?
背筋を伸ばし、そろえた膝の上に両手を置く。
「その世界の迷図を踏破する権利を進呈しましょう。表向きは神殿に祀られたご神体ですが、その実体は、本物の遺跡に等しい小さな迷宮なのです。はるかな昔、フェルゴモア皇家の祖が造ったと伝えられる、皇族や神官が学ぶための『場』なのです。見た目は薄紫色のガラス細工のようですが……」
プリンスがとうとうと蘊蓄を傾ける。世界に名だたるシャールーン帝国の至宝が、ごくありふれた美術品の紹介に聞こえる。
動けないユニスの視界の片隅で、隣の晶斗はまだナイフを睨んでいる。
――プリンスがわたしに何かしたとしか思えないけれど、……でも、どうして?
「ユニス、ラディウスをこちらに」
美しい声が、ユニスの頭の中で反響した。
なぜ、今朝取ってきたラディウスのことを、プリンスが知っているのだろう。
「あなた方がラディウスを手に入れたという噂は、すでに町で広まっているのですよ。皆がラディウスを手に入れようと、あなた方へ群がってくるでしょう。……わかりますね?」
ユニスの心を見透かしたように、美しい目が念を押す。
「ラディウスは、私に渡さなくてはいけません」
優しい声。よく見ると、唇の動きが微妙に音声とずれている。
晶斗はナイフを手にしてなにやら思案している。ユニスの方にはまったく注意を向けていない。
「プリンスへ、ラディウスを、渡す……?」
ユニスは繰り返した。
ふと、膝がこそばゆくなった。
あ、右手が勝手に動いている。膝の上からゆっくり持ち上がって……手の平を右肩の上へ向けた。
指先が曲げられた。
見えない空中から、丸い球を掴み出すがごとくに。ラディウスを隠した秘密の場所。そこから、ラディウスを取り出すつもりだ――。
トンッ。
テーブルで、音。
ハッとした。
ユニスの両手は膝の上に揃えてあった。
――あれ? まさか、幻覚だったの?
きちんと座っているユニスの隣で、晶斗が両手を上げていた。白いナイフは箱の中だ。さっきの音は、白いナイフを箱へ戻した音だった。
「やっぱり、いいや。まだ仕事を引き受けると決めたわけじゃないからな。なあ、ユニス?」
口調がやけに軽い。ユニスに異常な事が起こっていたなんて、まったく気付いていないようだ。
「え……え、そう……ね」
ユニスはぎこちなく首を回した。体が固まっている。喋るには、全身全霊で集中しなければならなかった。目の端に映るプリンスは、見動きひとつしていない。
――わたしの目がおかしいのかしら?
すぐにユニスのシェインの勘が『違う!』と告げてきた。
さっきのあれは現実だ。
――わたし、シェインが使えないんだわ。まさか、封じられている?!
すっかり忘れていたが、プリンスもシェイナーだ。それもシャールーン帝国屈指の能力者である。ユニスにシェインで抵抗されないよう、先手を打ったのだろう。
「なあ、その世界の迷図って、何だよ?」
晶斗が無邪気に訊いてきた。
ここで晶斗へ助けを求めるべきか……。
――いえ、だめだわ。信じてもらえない。
ユニスがプリンスに『何かされた』証拠は無い。
それでもユニスが、ここで体の調子がおかしいと訴えたら。
晶斗がユニスを連れ出すより先に、プリンスが救助の手助けを申し出るだろう。理医を呼ばれるかもしれない。いずれにせよ、この部屋に留められ、プリンスの手中へ落ちる。
そうならないためには、なんとかこの場をやり過ごして辞去するのが最善策だ。
「それ、は……すべての、シェイナーが、一生に一度は夢見る希望と、憧れの究極の迷図で、シャールーン帝国には……」
必死で喋っているうちに、固まっていた口はだんだんと解けてきた。晶斗にはユニスが考えながら喋っているように映っただろう。
「守護聖都フェルゴモールを始めとして、七大不思議と呼ばれるものがあるの。神殿や皇宮殿は観光名所だけど、『世界の迷図』は、シャールーン帝国皇帝の秘宝とも言われているわ」
ユニスは、ホッと小さな息を吐きだした。良かった、普通に喋れるようになった。体はまだ動かせないけれど。
安堵したら、晶斗への小さな疑問が湧いた。
『世界の迷図』は昔は皇室だけの秘宝だったが、近年では情報が公開され、シャールーン帝国の国宝として観光ガイドブックに掲載されてもいる。
護衛戦闘士でシャールーン帝国のシェイナーについての知識もある晶斗が知らないなんて、意外だ。
それに、こんな誰でも知っている話を、ユニスがプリンスに披露するのは恥ずかしい。
こっそり視界の端でプリンスの様子を窺えば、プリンスは晶斗に劣らず真剣な表情で耳を傾けてくれている。
今ここでは、おかしなことなど何も起こっていないかのように……。
「それに世界の迷図を踏破すれば、世界の理の秘密が明らかになるとか、神話に出てくるシェイナーのようなとてつもない力が手にはいる、という言い伝えもあるのよ」
話し終えたらどっと疲れた。一刻も早く、この特別室から逃げ出したい。
さいわい喋れるようになった。
このいきおいで「仕事はけっこうです」と断れば……。
「そうですね。そのように伝えられています。喜んでいただけてなによりです」
ユニスが口を開く前に、プリンスの微笑みに先制された。出かけた言葉が喉で詰まる。
「おい、遺跡探索の話を受けるのか?」
晶斗が訝しむ。
馬鹿、受けるわけないでしょ!……と、怒鳴りたいのをグッと堪えた。
仮にもプリンスの前でそんな言葉は使えない。
急いで脳内で丁寧な言葉に変換して……。
「ユニス?」
プリンスの優しい呼びかけに、つい顔を上げてしまった!
目が合った。
しまった!――と思った時には、遅かった!
「はい」
――ぎゃあッ、わたし、即答しちゃった?!
この流れでは「了解した」という意味にしか聞こえないではないか。
脇の下を冷たい汗が流れる。雇用主のユニスが引き受けた仕事なら、晶斗もユニスに従う。
プリンスは目論見通り、シェイナーと護衛戦闘士を一度に雇ったのだ。
「では、2時間後に、もう一度ここへいらしてください。正式な契約書を用意しておきます。くれぐれも遅れないように気を付けてください」
プリンスが、クスッと笑った。
ユニスをこんな目に合わせて笑っているなんて。
――なんて人なの!?
ユニスが知っているプリンスとは雑誌や映像の中のプリンスで、彼は青い星の光に喩えられた麗しい美貌の持ち主だ。
目の前に居る生身のプリンスは、顔こそ同じだが、身にまとう輝きは冷たい銀の光。それは青い星とは似ても似つかぬ、危険なゆえに美しい剣の鋭い切っ先さながら。
プリンスが立ち上がった。
ユニスも立った。まるで自動で動く人形みたいだ。
「引き受けていただけて助かりました。もちろん、装備もこちらで御用意させていただきます。では、のちほど」
プリンスは隣室へ去り、執事がドアを閉めた。
「あのな、決めるのは君でいいんだが……ちょっと話が早過ぎないか?」
晶斗がプリンスの去ったドアを眺めながらぼやいた。
――ええ、同感だわ。
ユニスはうなずきたかったが、また瞬きすらできなくなっていた。
メイドに先導され、出口へ案内された。
晶斗は黙ってユニスに付いてくる。ディバインボーンズは持っていない。仕事の報酬だと言われても、持ち歩くには重すぎるお宝だ。
丁重に、特別室から追い出された。
「なんだってんだよ、ったく。なあ?……ユニス?」
晶斗を無視し、ユニスはスタスタ歩いてエレベーターへ乗り込んだ。