空気の読める彼女
彼羽の瞳から涙が溢れ出した。頬を伝う量は次第に増え、まるで雨のように燦々と降り注いでいる。
思わず、僕も視界が歪んだ。
不思議だ。幽霊でも涙が出るなんて。
「ヨッくん……」
彼羽が名前をもう一度呼んだ。聞き馴染みのあるヨッくんという言葉。きっと、僕のことだろう。
今すぐにでも彼羽を抱きしめて、温もりを感じたいのにどうしてか身体が動かない。まるで、本心ではそれを拒否しているような、そんな感覚。
彼女もまた、手を伸ばしかけて引っ込めた。嬉しくて――涙が出るくらい嬉しいのに、お互いに拒んだ。
「ねぇ、幽霊君。この人って、どなた?」
希が訝しげな視線で彼羽を見る。
僕は説明するべきかどうか、しばし悩んだ。説明すると言っても、どう説明したら良いのだろうか。確実に昔の知り合いで、友達以上の関係だったことは明白なのだが、お互いに拒む理由の説明が難しかったりする。
「……夢だ」
僕が思案している最中、彼羽が呟いた。
「夢? 違うと思いますよ?」
希が首を傾げる。
彼羽は横に首を振った。そして、すっかり暗くなった空を仰ぐ。深く息を吸い込み、まるで潮の匂いを堪能するように吐き出した。頬を伝う涙が沈みかけの夕日で少しだけ輝いた。
「これは、夢なの。きっと。だって、そんなことありえないもの……」
あり得ないこと。僕のことだ。そう、あり得ないのだ。でも、僕はこうしてまだ立っているわけで、あり得ないことが起こっているのだ。
信じろ、という方が酷だろう。誰も、死に人が蘇るなんて微塵も思わない。願いはするが、叶わないことだと散々理解しているのだから。
そんな夢見たいな現実に突き当たった場合、たぶん僕でもまずは自分を疑うはずだ。そして、たぶん夢だと信じて片付けてしまう。
案の定、彼羽は僕に一瞥をくれることなく、踵を返してしまった。去っていく彼女を、僕は止めることができなかった。いっそ、夢だと片付けてくれた方が楽だから……。
「あ、待って……!」
追いかけようと踏み出した希の手を、僕は初めて自分から握った。
きっと、彼女は僕をふわっと浮かせて追いかけることができたはずだ。でも、彼女は僕が手を触れた瞬間、ピタッと足を止めた。そして、少しだけ驚いた表情で振り返った。
言葉が出ない。説明も、ひとまず今はできそうにない。
「……帰ろう」
結局、振り絞った言葉はデートの続きだった。
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「……説明、するよ」
夜が更け、布団に入る彼女に声をかけた。部屋の電気は消され、窓から差し込む月明かりが、青白く僕と彼女のかける布団を照らした。
青白く光る腕を見て、まるで幽霊みたいだと面白くもない冗談を心の中で呟く。
「…………うん」
長い沈黙を彼女の一言が破った。
結局、海辺での一件の後、彼女とまっすぐに帰路につき、いつも通り彼女が夕飯を作り、それを同じ卓を囲んで食べ、二人で洗い物をする。そして、彼女は風呂に早めに入り、その間僕は窓の外をぼーっと眺める。
特に変わらない彼女の家での日常を広げたのだが、僕は常に上の空であった。心ここに在らずというやつだろう。
ずっと、先ほどのシーンがループして脳内を駆け巡っていた。十年経った彼羽は外見こそ大人びていたものの、彼女から発される独特なオーラみたいなものは全く変わっていないように感じた。
僕のそんな様子を見て、希もどこか気分を暗くしたように会話を無理に繋げようとはしなかった。布団に入ったのも、いつもよりも随分と早い。
きっと、夕刻の出来事がなければ、彼女はいつも以上に喋り倒していたはずだ。完全に気を使わせてしまった。もしかしたら、気分を悪くすらしてしまったかもしれない。
だから、僕は語ることにした。いや、聞いて欲しかったのかもしれない。
「僕と彼羽は……幼馴染だ。小さかった頃はよく遊んだよ。子供っぽくおままごととか、ちょっとやんちゃして夜の学校に忍び込んだりもしたかな……。もちろん、こんな田舎だから中学も高校も一緒で、毎日一緒に登校して、下校して、休みの日は互いの家を行き来するような感じだった……」
言葉を切った。彼女が布団からのっそりと身を起こして、律儀に正座をして僕をしっかりと見つめたからだ。
本当に彼女は尊敬に値するほどに空気を読める人間だ。八方美人? そんなんじゃない。ちゃんと僕と向き合ってくれている。
「仲が良すぎたんだよ。きっと……。気がついたら、僕は彼羽を好きになっていたんだ。そして、自惚れとかじゃなく、はっきりとわかっていた。彼羽が僕を好いてくれていることも。でも、付き合うとかはなかった。思春期ってやつだね。互いに決定づけることは言わない。奥手同士だったからさ。それで……」
「……それで?」
「えっと……僕の病気が発覚した時にさ、きっと彼羽には幸せになって欲しくて、わざと大げんかしたんだ。くだらない理由で、嫌ってもらおうと思った。どう考えても理不尽すぎるいちゃもんだったから、今思うと笑えてくるけど。でも、彼女はずっと僕の病室に来ようとしたんだ。きっと、わざと嫌われようとしたってバレてたんだと思う。それでも、僕はやっぱり拒み続けた。会いたくて、胸が張り裂けそうだったのに、どうしても彼女を病室には入れなかった」
簡潔に、支離滅裂にも思えるくらいに肝心の感情を隠して話した。それでも、目の前の彼女はゆっくりと瞬き、小さく頷いた。
「……どうして、なんて聞くべきじゃないよね。なんとなく、わかるよ」
月明かりに照らされた彼女はとても美しかった。凛とした表情で僕をまっすぐと見つめる。風が吹いていないのに、腰まである長い黒髪がなびいたように見えた。
彼女の手が、僕の頬に伸びる。思わず、ドキッとしてしまった。
触れた手は温度を感じない僕でも分かるくらいの確かな温もりがあり、冷たくなった頬にじんわりと熱を這わせる。
「それで、今日会ってみてどうだった? って、聞いてもいいかな」
言葉を選んだ彼女に対して、僕は迷うことなく答えた。
彼女には隠すことはやめよう。それが、真剣に僕を見てくれている彼女へ為すべき対応だろう。
「不思議と、何も感じなかったよ。もちろん、懐かしくて、愛おしかったけど恋愛? ってなるとそういう感情は全く湧かなかったんだ」
「……そう」
「うん……」
「綺麗な人だったな。大人の女性って感じ」
「そういう問題じゃないよ」
「わかってる……」
拙い会話だ。互いに次に語るべきことがわからないからだ。
どうしたい? と聞かれたら、きっと返答に詰まってしまう。でも、彼女は妙に空気を読むから、そんなことは尋ねない。
「私ね――」
彼女が少しだけ俯いて、視線を僕から外した。
「小さい頃に、死にかけたことがあるんだ」
「えっ…………?」
突然の告白に、僕は言葉を失った。視線が揺れる。
「まあ、そんなに詳しく話すようなことでもないけど、それこそ余命宣告もされたよ。……でも、ゆうれ――君にこんなことを話すべきではないのかもしれないけど、私は生きた。顔も知らない人に助けてもらった。……命をもらったの」
口が開いたまま閉じなかった。汗が背筋をツーっと這った。
そんな様子を見て、顔をあげた彼女は軽く声を立てて微笑んだ。
「ちゃんと話してくれたからね、私もお返し! これで隠しっこは無しだね!」
まるで楽しい会話をした後のような笑顔を彼女は作った。僕もつられて笑った。本当に、彼女には敵わない。
「君って、本当に空気読めるよね」
「そうでしょー! 惚れた? 惚れちゃった?」
「はいはい、惚れた、惚れた」
「当然なのです! なんたって、私はモテるからね!」
そんなことを言いつつ、若干照れたようにえへへーと笑いながら布団に潜る彼女。
僕は窓の外に目を向けた。
結局、彼女は何も言わなかった。これからどうするべきなのか、明日のことも、その先のことも、道を示すことはなかった。それが、正しいからだ。
僕自身が決めなければいけない。
――二十二日。
不意に脳裏に数字が浮かんだのであった。