土砂降り
須藤がキャンパスに走らす右手を止めた。
「大丈夫。学校にはバレないように最大限、配慮はするからね。じゃないと、僕も希も、そして清水さんも大変なことになってしまうからね」
柔和な笑顔を浮かべる須藤。しかし、僕から見れば、悪魔の不敵な笑みそのものだ。
「その……む、りです……」
須藤の顔から笑みが消える。半ば睨むような冷たい視線。
「どうしてだい? 君は、清水さんの友達だろう? 友達のことはどうでもいいと言うのかい? 僕は清水さんが犯した過ちを、本来は学校側に伝えなければいけない立場だ。でも、それを隠蔽してあげている。これが、僕にとってもどれだけのリスクになるのか、わかるね? では、そのリスクに対するリターンをもらうのは、当然のことだろう? なのに、君はそれを拒むと言うのかい?」
まくし立てるように早口で言葉を連ねる須藤。
「……屑かよ」
思わず小さな声が漏れた。
「あの、私実は……彼氏が、います。だから、その……ごめんなさい!」
希は立ち上がり、頭を下げる。
「清水さんのことは――」
「彼女のことは許してあげてください! お願いします! お願い、します……」
沈黙。
須藤は炭で黒く染まった手を顎に当て、頭を下げ続けている彼女をじっと見つめる。
「ふむ、なるほど分かった」
「本当ですか!?」
彼女は少し驚いたように顔をあげる。
「その彼氏とやらと別れなさい」
「――えっ……?」
彼女の表情が凍りつく。
「別に希が誰かと付き合っていようと、僕には関係のない話だ。何も、彼氏と友達どちらを取るのか聞いているんじゃない。僕と付き合えば、清水さんも、君の彼氏も不幸にはならない。けど、君が友達よりも彼氏を取ると言うのであれば、清水さんは残念ながら大学は諦めるしかないだろうね。彼女、国立大学を目指しているんだろう?」
あぁ、腸が煮えくり返る。
須藤は椅子から腰をあげる。
「さあ、そろそろ答えを聞かせてもらえるかな? 大丈夫。僕は、自分の物は大切に使うタイプだ」
「――ふざけんなッ!」
気がつけば、美術室の扉を思い切り開けて、教室に踏み込んでいた。
彼女が振り向く。あの彼女が、今にもその瞳から涙をこぼしてしまいそうだ。
須藤は少し驚いたようで、彼女に歩み寄ろうとしていた足を止めた。
「彼女は……希は、お前の物じゃない」
彼女の前に立つ。ワイシャツの裾を彼女の震える手がきつく掴む。
「ふむ、君が例の彼氏くんかい? このタイミングで出てくるってことは、今の話、聞いていたね。希と別れなさい。何も、今後一切関わりを持つなって言っているわけじゃないんだ。まだ、君たちは若い。他の人を探すだけの話じゃないか。それだけで、清水さんの将来が救われるのなら、こんなに素晴らしい別れの理由はないだろう?」
「話にならないですね。失礼します。須藤先生」
彼女の手を取り、美術室を後にする。
「いいかい。よく考えて、今日中に答えを出しなさい。夜の九時、学校の前の公園に私はいるから、しっかりと来て、答えを聞かせなさい。あぁ、それと親御さんには今日友達の家に泊まるように言っておきなさい。夜通し可愛がってあげるからね」
背後から聞こえてくる須藤の声は、顔を見ずとも、彼がゲスい笑みに塗れていることが明白だった。
「ごめんなさい……巻き込んじゃって。でも、ありがとう……助かった」
彼女の手を握ったまま、校舎を突き進む。途中、多くの生徒とすれ違い、ヒソヒソと呟かれるが、そんなことどうでもいい。
今は、とにかく須藤がいるこの学校から出たかった。
頭の中を怒りが駆け巡る。
こんな話、せいぜい本かドラマの中くらいだと思っていた。しかし、実際に目の当たりにすると、ふつふつと怒りが込み上げて来る。
「謝る必要ないよ。とりあえず、一旦家に帰ろう」
彼女は半ば放心状態で、手はずっと震えていた。
二人分の傘を取り、校舎を出る。
雨はいつの間にか土砂降りになっていた。
家までの帰路は互いに一言も話さなかった。しかし、握りしめる彼女の右手はずっと力を緩めることなく、強く握り締められていた。
家まで着き、彼女にタオルを渡す。一本の傘で帰って来たため、お互い、結構濡れてしまっている。
「とりあえず、濡れたんだから風呂入って来なよ。そしたら、全部聞くからさ」
「……ん」
ふらついた足取りの彼女を脱衣所まで連れて行き、扉を閉めた。
一人のリビング。大降りの雨音とかすかに聞こえて来るシャワーの音だけが響く。
詳しい話は彼女に聞かなければわからない。今、何かを考えても無駄だ。
しかし、須藤は九時に学校前の公園に来いと言っていた。それまでには、何とか対策を取る必要がある。
時計を見ると、短針は十二時を指している。後、九時間。
先ほどの様子を見るに、須藤は希に固執している。最終的にはどんな強硬手段を取って来るか分かったもんじゃない。
自分の問題ではないが、彼女がこれ以上傷つく姿を見てはいられない。何とかして、この状況を打開する必要がある。
「ねぇ――幽霊くん」
微かに彼女の声が聞こえた。
「どうした?」
脱衣所に繋がる扉の前で聞き返した。
「ちょっと話しづらいね。脱衣所まで来て」
「は? でも――」
この不思議な身体のせいで、そういった欲は無いとはいえ、やはり羞恥心というのはあるわけで、深く唸った。
「大丈夫。私、まだお風呂の中だから」
「じゃあ、入るよ……」
恐る恐る扉を開ける。
脱衣所には服が雑に脱ぎ捨てられており、衣服の小山の隙間から下着と思しき一部が見えてしまい、慌てて目を逸らす。
硝子折れ戸の向こう側には人影は無く、シャワーの空流しの音だけが鳴り響いている。どうやら、彼女は浴槽にいるのだろう。
壁に背を預け、なるべく風呂場と脱ぎ捨てられた衣服を見ないようにして座る。
「春華はね……あ、須藤先生の言ってた清水のことね。私の親友なの。ほら、幽霊くんも会ったことがあるでしょ? 初めて一緒にご飯食べた日に、君のことが私以外に見えるか確かめた子」
「あぁ、あの人か……」
「春華はね、普段はすごい真面目なんだけど、一ヶ月前にちょっとした事件を起こしちゃったんだよ」
流れ続けるシャワーの音に負けそうなくらい小さな声で、けれど、はっきりと彼女は語り出した。




