淫魔の敗北
夜。まあ、ダンジョンの中で時間感覚もあったものではないんだが、ゴブゾウとも別れて俺とヘルさんは昨日と同じように一緒の部屋に戻った。
ヘルさんの口数は少なく、どちらからというわけでもなく一緒のベッドに入る。
「……何も、聞かないんですか?」
しばらくしてから、背中に触れながら尋ねてくる。
そうだな。最初からだ。レベッカの言っていたことが本当なら、俺たちが今日、駆けずり回る必要も無かったわけだしな。
ただ、ダンジョンで挨拶回りがてら様子を見るのも無駄ではなかったしな。それに、例えば這いずり回ってる俺を嘲笑う為だとか、そんな理由がヘルさんにあるわけがない。それが分かっていれば別にいい。
「どうでもよくはないさ。俺じゃ頼りないかもしれないけど、話してくれればって思う。けどヘルさんが話したくないんならそれはしょうがない」
だから自分を責めたりはしないでほしい。せめてそれだけ伝えた。
「……実はですね。私は、この地のダンジョンマスターだったんです」
ヘルさんが語り始めた事柄は、それなりの衝撃的な事実ではあったが事の本質からは微妙に外れている。
「ある日、ディーヴェルシアが突然やってきて、瞬く間に私のダンジョンを貰う! と」
ああ、何かすげえ想像ついた。
にしても……アイツ一体何なんだ。異世界召喚もそうだが、元々ダンジョンマスターじゃなかった? まあ、その謎に迫るにはまだまだ色々足りないんだろうが。
しかし、不憫だ。そんな理不尽に迫られて。
「いえ。そんなことはありませんよ。私は、ディーヴェルシア様に出会ったことは本当に幸運だと思っています。私が治めるよりも、ディーヴェルシア様がこのダンジョンを治めた方がずっと幸せだったんだと」
しみじみと語るヘルさんの言葉に後悔の色は無い。本気でそう思っているようだ。
そこに違和感があった。今のヘルさんを見ても、実質、取り仕切って信頼されているのはヘルさんのように見えたし、その上に立つのが傍若無人を絵に描いたようなアレなのだから。
「違和感がある、というのはそうでしょうね。今の私は、ディーヴェルシア様と出会う前の私とは全然違いましたから」
ヘルさん曰く、ヘルさんは魔族たちの中でも保守的な勢力に属していて、人間……いや、ダンジョン内の魔族を虐げることにも何ら疑問を抱いていなかったらしい。それがこの世界での当たり前だから。
正直今一つ想像がつかないが、それはディーヴェルシアがそんなヘルさんを打ち倒し、そのプライドを粉々に粉砕し、変えてしまったからだという。
『古い! つまんない! バカじゃないの。そんなこといつまでも続くと思ってるの? 自分の頭で考えたの? いいわ。だったらわらわに従いなさい。それくらいならできるでしょ』
ひっでえなアイツ。
「そうですね。人の世の理で考えるのであればそうなのかもしれませんね。ですが、ディーヴェルシア様の言う通りだと思いました。私は魔族の理に追従するだけで、支配者としての自らの哲学、王道を示すことは出来ませんでした。だから、あの方は眩しかった……そう、私は敗けたのですよ。完膚なきまでに」
その言葉はどこか清々しいが、どこか空虚だ。
「上級淫魔の戦いについては聞きましたね?」
確か、演劇のように振る舞って戦い、翻弄し、魅了する……だったか。
「そう。私たちにとっては力による敗北はさほど大したことではありません。ですが、私は……言ってしまえば、恋に落ちた。ときめいてしまいました。それは、淫魔にとっての敗北。ですから、私は……」
ヘルさんの過去。何があったのかは知らないが、それから脱却して変化した自分のことをヘルさんは後悔していない。
けれどその時に受けた傷が、今ヘルさんを蝕んでいる。
そんなヘルさんに対して、俺の出来ることは。