表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神の心、人知らず。  作者: 渡辺御門
1/4

第0話『姉と弟』

3話で完結しております。

    第0話『姉と弟』




 天浮橋(あまのうきはし)から、わたしは今日も芦原中国(あしはらのなかつくに)をのぞく。この光の橋は地上へと繋がっている。かつては神々が天地を行き来するために使われていたが、数千年が経過した今となっては、高天原(たかまがはら)に住まう神々がたまに地上をのぞいて微笑む程度の役割しか果たしていない。

 神々が多忙を極めたのは数千年も昔のことだ。考え、話し合い、時には争いつつもわれら天津神(あまつかみ)は国をつくった。そしてその国を、地上で生まれた神である国津神(くにつかみ)が豊かにした。それから再び国は天に譲られ、長き時を経て天津神の遠い子孫である神が国を治めることになる。

 芦原中国。今の名を『日本』。それは今もわれらの子孫が、深き愛と慈しみの心をもって治めている。



 高天原の神殿にわたしの姉は住んでいる。姉に呼ばれたわたしは天安河(あまのやすかわ)を飛び越えて、柔らかい草と花が埋める道を進んだ。傍らに見える小屋では機織女(はたおりめ)神御衣(かむみそ)を織っている。横切る畑は年中豊かである。煌びやかな舞台では芸能の神が舞を披露している。かつてわたしが二度ほど追放されたことのある天上の国、高天原は、今日も穏やかに美しい。

 神殿の門前に立つと、ひとりでに門が開いた。開き切った先にはここよりさらに天へと伸びる長い階段が待っている。白く輝く階段に足をかけ一段ずつ上っていくと、光の塊のような神殿がわたしを迎えてくれた。わたしは入口に立った。するとまたそれは勝手に開かれる。その奥にも扉があったが、まるで風を受けた絹のように軽やかにすべてが開かれ、わたしは最奥に姉の姿を見た。

 わたしは歩き出す。徐々に近づく姉は、生まれたときの姿のままだった。白い髪に白い肌に白い神御衣を纏っており、頭に頂いた冠と慈愛に満ちた瞳だけが金色に煌めいている。わたしは姉より美しい神を見たことがない。妻も娘も、姉には敵わない。美しい姉は美しい高天原の統治者であり、高天原そのものであり、わたしの姉であり、神を含むすべての者たちの慈母である。

 天上に在る高天原で最も天に在るところに座ったまま、姉はわたしを見つめた。海の底で眠る水のように静かな姉だが、怒るとかなり恐ろしい。実の弟であるわたしに弓を向けるくらいだから、微笑んでいるだけの神ではないということだ。しかもそれがそのまま天変地異に繋がってしまうのだから、神というのは実に生き辛い。もっとも、信仰が薄れた昨今の日本に、いまさら神の諍いの余波など影響しないのだが。

 姉は私の目をしばらく見つめてから、すべて分かったという風に嘆息した。大昔なら、これくらいで太陽が陰ったものであるが、もちろんそんなことは起きやしない。太陽は恒星のひとつであり、姉の神体でないことは人も神も皆が知っていることである。

「最近、あなたは天浮橋から地上をのぞいているようですね」

 姉の言う最近とは、ここ数百年のことを指している。わたしは素直に頷いた。

「あなたは昔からそうでした」

「そう、とは?」

 姉の言わんとしていることはなんとなく分かっている。しかし反抗心のようなものを見の内で感じたわたしは、わざと問いかけた。姉はかすかに目を細めた。

「好奇心が強いのです。いえ、それだけではない。あなたは心の存在が強すぎる」

「それを言うならば、高天原に立ち寄ったわたしに弓を向けた姉上もなかなか激しい心を持っておられるのでは?」

「昔のことを蒸し返すのはおやめなさい」

 叱られてしまった。そもそも先に『昔』と口にしたのは姉上の方ではないか。そんなことは口が裂けても言えないが。

 仕方なく口を噤んだわたしを姉がどう見たかは知らないが、そこに呆れが含まれているのは確からしい。美しいものをすべて混ぜて出来たような姉は、まっすぐに背筋が伸びた姿勢をわずかに崩し、傍らの脇息に肘を乗せた。大神が寛ぐ姿を拝めるのなんて、直近の身内くらいだろう。他の神々や地上の民が見たらさぞ驚くに違いない。

「あなたには自分が尊い神であるという自覚が足りない。よいですか、弟よ。あなたは神世七代(かみよななよ)たる父母から生まれた三貴子(さんきし)なのです。わかりますね。確かにわれらには諍いがありましたが、今はあなたも高天原を守る身なのですよ」

 だから他所に興味を持つなと姉は言いたいのかもしれない。姉はおそらく、わたしがかつて根之堅洲国(ねのかたすくに)へ行きたいと喚いたせいで起きた騒ぎのことを危惧しているのだろう。それから一体何千年が経ったと思っているのだ。心外だ。それにわたしが根之堅洲国へ行きたいと言ったのは、母がそこにいたからだ。残念ながら、地上に対しそのような思い入れはまだない。

 しかしわたしは、ここで素直に「地上には興味ありません」と頷ける性格ではなかった。

「では、尊い神であるわれらは高天原に引き籠っていったいなにをすればよいのですか。たいした力も持ちあわせず、われらがいなくとも時が巡る地上を見下ろして、われらはなにを成すのですか」

 地上の民に神がしてやれることなど、今やなにもない。災いに見舞われ芦原中国がなくなってしまいそうになっても、われらは橋から覗き込むことしか出来なかった。われらは無力な神なのだ。国作りという大業を成した神々が無力とは笑えない話であるが、事実なのだから仕方がない。人とは成長する生き物だ。そしてその成長は早く、神を必要としない存在となるのにそう時間はかからなかった。

「姉上が高天原にいなくとも太陽は地上を遍く照らします。わたしがいなくとも海は枯れないでしょう。兄上がいなくとも月は輝き夜を守ります。ならばわれらはいったい……」

 そこまで言って、わたしは口を閉じた。悲しそうに顔を俯ける姉へさらに言葉を被せることが出来なかった。

「あなたの言う通り、太陽は今やわたくしなくして存在します。かつてわたくしが天岩戸に隠れたさいに太陽が姿を消したのは、他ならぬ地上の民が、そして高天原の神々がわたくしを太陽の神だと信じてくれていたからです。ですが今、わたくしは太陽ではありません。わたくしは地上の民とともに、太陽へ感謝を捧げる者です。

 しかし時に、彼らはわたくしが太陽の神として生まれたことを信じてくれます。わたくしは、そうして忘れずにいてくれる彼らが愛しい。彼らの気持ちを受け止めたいのです」

「ですが姉上。人々は自己中心的な願いごとをぶつけてくるではありませんか。信仰心もないのに、神宮に訪れてはくだらない願いをして帰る。信仰を失って力を失くした神にいったいなにを求めているのか、わたしには分かりません。信仰されなくなったわれらは力を失い、力のない神に祈る民は報われない。それが今世ではないですか」

「分かっています。分かっていますよ。しかしわたくしは地上の民が愛おしい。優しい弟よ。あなたにも分かるでしょう?」

 わたしは頷けなかった。姉は続ける。

「日本の神々は地上の民とともに在ります。われらは人を罰することもなく、また、赦すこともなく、ただ地上の民を愛しているのです」

 姉の言葉が、わたしにはただの言い訳にしか聞こえなかった。力を失くし、人を救えなくなった神の言い逃れではないか。

「御用はそれだけですか。失礼します」

 返事も待たずに踵を返した。背後で姉が珍しく声を高くする。

「お待ちなさい。なにか、良からぬことを考えているのではないですか」

 無視して部屋を飛び出した。開こうとしない扉を蹴り開けて、跳ねるように数段飛ばしに階段を駆け下りる。後ろから神殿の守役がなにやら叫んでいたが、足を止めてやるつもりはない。これまた開かない大門をひょいと飛び越え、上に乗ったところで声をかけられた。今度は咎めるような口調ではなかった。門の外側からわたしの名を呼んだ男神がこちらに向かって手を振った。

「兄上」

 数百年ぶりに会った兄を見下ろせば、兄は前に会ったときとまったく同じ笑顔を浮かべた。

「やぁ、元気にしていたかな?」



 兄に誘われるがまま、わたしたちは天安河の畔に赴いた。胡坐をかいて座るわたしの横で、兄は履物を脱いだ素足を河に浸している。姉と同じく、兄の髪と肌は光のように白い。しかし少しの混じり気もなしに白い姉の髪に比べて、金色に光って見えるのは、兄が月の神であるからだろうか。

 兄から視線を外し、わたしは水面を覗き込んだ。黒々とした髪と、少し焼けた色をしている肌が映る。これがわたしの姿だ。三貴子の中ではもっとも芦原中国の民に近い姿をしている。大昔には顎髭をたっぷり蓄えた姿をしていたものだが、事情があって今はなく、貫録の欠片もない若造のように見える。それは姉も兄も同様だ。

 誘ったのは兄の方だったが、彼は水を蹴るばかりで一向に口を開かない。仕方なくわたしの方から話しだした。

「月に居座っている兄上がわざわざ高天原に来たのだから、姉上になにか用事があったんじゃないのか」

 兄に対して、わたしの口調は砕けていた。昔からそうだったので、慣れている兄は気にも留めない。そもそも兄弟と言ってもきちんと順番に生まれてきたものではないので、兄と私の間に明確な上下関係があるわけではなかった。父の言う通り月と夜の国を真面目に守ってきた神の模範である兄と、海原を放置して高天原を追放されつつも遠呂智(おろち)退治という功績を残したわたしのどちらが上かなど、比べようもないが。

 兄は「べつに」と首を振った。思わず苦笑する。

「べつにって……用もなく月をあけていいのかよ。父上に叱られるぞ」

「おまえこそどうしてここにいる。伝説の英雄は高天原の出入り禁止を食らったと聞いていたが?」

 伝説の英雄とはわたしのことだ。白々しい。苛立つほどのことでもないが。

「根の国からたまたま遊びに来ていただけさ。すぐに帰るよ」

「おや、そんなことを言わないでくれ。もう少し兄の話し相手をしてくれてもいいだろう」

「話し相手って……兄上は用があって来たんだろ? いつもはさっさと用だけ済ませて帰るじゃないか」

「用って程の用はない。さっきそう言ったではないか。わたしはただ、弟の顔を見に来ただけさ。強いて言うなら、それが用事かな」

「は? くだらねぇ」

 わたしは歯を食い縛り、頬が緩みそうになるのを堪えた。そうしなければ、兄に対してさも呆れたと言わんばかりの顔をしてしまいそうだったからである。決して、断じて、嬉しいなどと思ったからではない。

「そうだ、天浮橋へ案内してくれないか」

「どうして」

 考えるより先に口が出た。理由を聞きたかったのもあるが、兄が天浮橋の場所を知らないことに驚いた。しかし考えてみれば当然のことである。いかにも月の神らしい名前を持って生まれた兄は、生まれて間もなく使命に従い月へ向かったのだから。

「おまえが夢中になる地上とはどんなところなのか、わたしも知りたい」

「夢中になんてなってない。そんなこと、いったい誰から聞いたんだ?」

 分かりきったことを聞き返すと、兄は困ったように首を傾げ、不器用に誤魔化そうとした。言及するのも癪なので聞かなかったことにしておく。そんなことより、姉と兄が連絡を取り合っていることに驚いた。昔から姉はわたしばかりに目を配って、同じく弟であるはずの兄には目もくれなかった。それは兄が手のかからない弟であったからだろう。しかしわたしは、太陽と月という対照的な神である二人の性格も真反対で相容れないからではないかと密かに邪推していたのだが、どうやら関係は良好らしい。わたしにとって都合の悪い方にだが。

「少し歩くぞ」

「構わない」

 用意が整うのを待ってから、わたしは兄の手を取って歩き出した。引っ張られる腕につられて兄も歩き出す。わたしの心配をよそに、後ろをついて歩く兄の足取りはわたしのそれとそう変わりはなかった。

「なんだよ。もしかして、ちゃんと視えてるのか?」

「ははは、うん、河に落ちたり、階段を踏み外したりしない程度にはね」

 夜の国に住んでいる兄は目が悪い。暗い中ではよく視えるらしいのだが、高天原に来るといつも躓いたり転んだりしていた。兄曰く、ここはひどく眩しいらしいのだ。前に兄が来たときに、誰かに手を引かれている姿をわたしは見たことがあった。今この場にはわたししかいないので、親切心から手を取ったのだが、必要なかったらしい。

「それなら手を離してもいいか? 兄上が美しい姫だったら、抱えてやっても良かったんだけど」

 言いながら手を離す。横に並んだ兄は、田んぼに実る稲穂を一本抜きとって、楽しそうに振ってみせた。ご機嫌麗しいのは結構なことだが、そんなことをしたら稲作の守護神に叱られそうだ。

「薄情な弟だな。もしここにいるのが姉上だったら、手を離さなかっただろうに。姉上はこの世のなによりも美しいからね」

「……姉上の手を引くなど、畏れ多いことが出来るかよ」

 まったく兄は無神経なことを言う。姉上とわたしの蟠りを知っているくせに。そんな文句が喉元まで出てきたが堪えた。子どもの駄々じゃあるまいし。



 橋は天安河の下流側にある。わたしたちは川沿いをひたすら歩いた。途中、わたしたちの姿を見とめた泡の神が恭しく頭を垂れただけで、他にはなにもない道を進む。

 わたしはふと、芦原中国の姿を思い浮かべた。かつてはここと大して変りない、田んぼと小屋と神社があるだけの地だったのに、今や建物が詰め込まれた箱庭のような姿になっている。そこを覗き込み、たくさんの人が暮らす様を見つめては、狭そうだなという感想をわたしは抱く。まともに歩けないのではないかと案ずるが、不思議なことに住まう人々は不満を感じている素振りも見せない。しかし、生き辛そうにしている人の多いことには毎度驚かされる。世は発展し便利になったはずなのに、なぜだろうか。

 地上のことについてある程度の知識はあるにしろ、直接覗くという趣味のない兄は今の芦原中国を見下ろしてどんな感想を抱くだろう。それがどんなものであれ、わたしの疑問をぶつけてみようと思った。

「地上はおもしろいのか?」

 わたしは即座に「おもしろい」と答えた。

「ここには顔見知りしかいないだろう。しかもそのほとんどが何らかの形で繋がっている。しかし地上は顔も名前も知らない人だらけだ。文明も発展していて、訳の分からないもので満ちている。そんなところがおもしろくないはずがないだろう」

 兄の目が輝いた。興味を持ったらしい。しかしすぐに顔を曇らせた。

「そんなに楽しいのなら、信仰心を失くしてしまうのも仕方がないな」

 的外れなことを言う。おもしろいと思ったのはわたしであって、地上の民はそうではない。名前も顔も知らない人と擦れ違ったことや、発展した文明を毎日おもしろがる人などそうそういないだろう。

「信仰心とそれは関係がないと思う。わたしが思うに、地上の民が信仰心を失くしたのは、神に愛想が尽きたからではないか。人はいつからか、神は願いを叶えてくれる存在だと勘違いしている。しかし神は心願成就なんてしない。そうなれば、信仰しようという気もなくなるだろう。そうしてまた神は力を失い、人と神の距離が程遠いものとなり、信仰は失われる。それだけのことだ。人は楽しいから忘れるんじゃない。悲しくても助けてくれないから信じられなくなり、感謝の気持ちを忘れるのさ」

 その神自身の神通力になんらかの力があったとして、神社を通してご利益に肖ろうとするのは構わない。しかし己一人に恩恵を期待されても困るというものだ。遠呂智が人を襲ったというのなら、進んで剣を取るつもりだが、そんなことはもう永遠に起きそうもない。化物や妖怪の類もわれらと同様の理由で力を失っているのだから。

 わたしの御託を最後まで聞いた兄は取り敢えず頷いてくれた。別に同意を求めていたわけではないので、反応などどうでもよかったのだが、ここで「いや違う」なんて言われていたら、おそらくさらに長ったらしい御託を並べていたに違いない。小物っぽいことをせずに済んで良かった。

 それからも兄は頻りに地上のことをわたしに尋ねた。地上のことを話題にすれば、親しみを持ちつつも薄絹一枚を隔てたような距離を取ろうとする他の神々と違って、遠慮の欠片もない兄の問いがわたしにはむしろ心地が良かった。最初の煩わしさも忘れてついベラベラと話しているうちに、わたしたちは天浮橋のすぐそばまで来ていた。

 しかし天浮橋とわたしたちの間に、二柱の神が立ちはだかる。着物には太陽の紋。姉の使いだということは一目瞭然だ。

「御無礼をお許しくだされ。我らが慈母の命でございます」

 堅苦しく膝をつかれても困ってしまう。聊か腹立たしくはあったが、こんなことで癇癪を起こせる気力が今のわたしにはない。やれやれ、という風に掌を天に向けた。

「姉上はわたしのことが余程気に食わないらしい。それでも弓を向けられないことには、とりあえず感謝しているが」

 軽口を叩けば睨まれた。高天原には私をよく思っていない者らが多いので、こんな視線は慣れたものである。しかしいい気がしないことに変わりはない。天浮橋が封鎖された今、わたしの頭はさっさとここを出て行こうという考えで満たされていた。兄上がいる夜の国に厄介になるのも悪くない。しかし、月は根の国と遠すぎる……。

 そんな算段をしているわたしと、隣にいる兄に向って従者は大きな鏡を向けた。太陽の光を受けて一度強く輝いたかと思うと、鏡はわたしたちではなく、神殿に座る姉の姿を映しだした。なるほど、よほど出歩くのが嫌いらしい。姉には引きこもりの才能があるようだ。

 出不精の姉はまず兄の方を見た。不満が顔に出ているのが分かる。兄の顔を横目に窺えば、微笑みを湛えるだけだった。その神経の太さには恐れ入る。気弱なわたしなどは、姉にひと睨みされただけで身を縮めてしまうというのに。

「可愛い弟よ。高天原に来たのならば、まずはわたしに顔を見せにきてほしかった」

 要約すると「礼儀知らずめ」と姉は言いたいらしい。叱られた兄は申し訳なさそうに頭を垂れて詫びた。なんだ、つまらない。内心で兄の反抗を必死に嗾けていたわたしは一気に興ざめた。姉に反抗する者といえばわたしくらいで、その事実を姉も承知している。そんな姉が兄に反論されたらさぞ衝撃を受けるだろう。そうなったときの姉の表情を想像していたのだが、実際に拝める日は遠そうだ。

 苦言の標的がわたしに移る。むしろこっちが本命だったのだろう。姉の目は本当に太陽神かと問いたくなるくらい冷たかった。これにもわたしは慣れているが、何度も言うように、いい気がしないものである。

「どうしてわたくしが天浮橋を封鎖したか、賢いあなたはすでに分かっているでしょう」

 随分とまどろっこしい言い方だな。こんな風に言われると、余計に臍が曲がってしまう。そこのところを姉は分かっていない。姉は神としては優秀だが、指導者としては落第だ。

「わたしには分からないことがあります。姉上はどうしてそこまで、地上を毛嫌いするのですか。愛しいと言っておきながら、姉上の行動はまるで臭い物に蓋をするようではありませんか。これではまるで矛盾しています」

 鏡を支えている従者がざわついた。声をかければ発言を許可することになってしまう。彼らと議論するつもりはないので、無視を決めた。

 鏡の中の姉は怒りも困惑も感じさせない表情で、静かに言った。

「愛しいと思う気持ちに嘘はありませんし、地上を臭いものだと思ったことは一度もありません。ただ、我らは地上と関わるべきではないとわたくしは思っている。信仰されなくても、名前すら知られていなくても、われらはこの国の神として、尊い姿を保っていなければならないのです。彼らが困り果て国が神を頼ったとき、心の支えになれるようわれらは尊い姿であるべきなのです」

 理想論だ。そう一蹴したいのを、やはりわたしは堪えるしかなかった。姉が地上を語るときに見せるこの表情に、わたしは弱いのである。

 こうなったらもう、わたしには逃げるという選択肢しかない。高天原はこりごりだ。しかし根の国へ帰ろうにも、今の姉が易々と許してくれるとは思えない。それならば兄を頼るかと思ったが、どのみち同じことだと悟った。この場からすぐに、姉の手が及ばない場所へ行くしかない。そう思ったわたしの決断は早かった。

 鏡を飛び越え――ついでに従者たちの頭を踏んづけてやって――わたしは天浮橋に立った。姉が私の名を叫ぶ。呆気にとられていた従者は姉の声に気がつき、咄嗟に体を反転させた。拝める日は遠そうだと諦めていた姉の表情が鏡の中にはあった。常から涼やかな姉の顔に浮かぶ驚愕の色。鏡越しの説教で済ませようとしていたからそうなるのだ。わたしは姉の衝撃をしっかりと目に焼きつけてから、颯爽と橋の上を駆けた。地上へまっすぐに繋がるそれがいったい芦原中国のどこへ繋がっているのかは、わたしの知るところではない。しかしわたしは恐れることなく足を進めた。立ち止まれば最期、姉に捕まってしまう気がして、夢中だった。

 しばらくそうして走っていたが、先は白い靄に包まれていて数歩先も見えない状況である。わたしは走った距離を確かめるように振り向いてみた。すると遠くの方に小さな影が見えて、思わず緊張する。追手かと思ったが、その割には足が遅いようだ。少し待ってからよくよく目を凝らしてみると、ようやく詳しい姿を確認できた。わたしを追っているのは、兄だった。

「なんてことだ」

 思わずそんな独り言が口をつく。兄を巻き込むつもりなど毛頭なかったのだ。というかこの場合、兄の方から勝手に巻き込まれにきたようなもので、正直言うと迷惑だった。だがここで無視をするわけにもいかず、わたしは仕方なく兄を待つことになった。

 近くまで来た兄が荒い息を整えるのに、しばらくの時間を要した。苦しそうに体を屈めていた兄が顔をあげる。兄が何かを言う前に、わたしは先手を打った。

「連れ戻しに来たのなら無駄だ」

「まさか」と兄が笑う。「わたしも地上に行きたいのだ」

 冗談かと思ったが、どうやら本気らしい。しかし兄には、見離されたわたしとは違ってきちんとした役目がある。そのような抵抗の言葉を述べれば、兄は事も無げに笑った。

「わたしがいなくとも平気だよ。わたしがいなくとも月は満ち欠けを繰り返すからな」

 姉と同じことを言う。返す言葉もない。兄を追い返す理由を早々に失ったわたしは、まさにお手上げといったところだ。

 こうしてわたしと兄は地上へ下りることになった。天浮橋の果ては未だまったく見ることが出来ないが、地上が近いということはなんとなく漂ってくる気配で分かる。わたしたちはゆっくりと、しかし確実に白い道を進んだ。

 しばらくするとより濃密になった白がわたしたちの体をしっかりと包み込んだ。肌に触れるそれはひんやりと湿り気を帯びていたが、次第に包み込むような温かさを持ち始める。刺さるような一筋の光が見えてきたかと思えば、徐々に眩さを増し、目を開けているのが辛かった。微かに開けていることも出来なくなり、目を閉じ、しかし歩き続け、そして、わたしは意識を失った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ