それはだれもいない道
舞台の上に立っている。緞帳が下りていて、その向こうに人の気配はない。足下にビニールテープが貼ってあって、小道具の場所などを示している。舞台袖へ向かう矢印が一つ作ってあって、そこに私の名前が書かれていた。
その矢印に沿って歩いてみると、靴に仕込まれた鈴が可愛らしく鳴る。リズミカルに、着実に、私が進めた歩数分だけ鳴るものだから、愉快になってくる。昂った気持ちのまま舞台を下りると、そこにひとりの男が待っていた。
男は私を抱擁して、よくやってくれた、と褒めてくれた。それから、私の手を引くと、見せたいものがあるからといって劇場の外へ連れ出した。
外には雪が降っていて、うっすらと足跡が残る程度に積もっている。ガス灯が等間隔に光っていて、道が白く照らされている。そこに、一輪車が通っていったかのような一本のすじが残っていて、そこだけ黒く見えて不気味だった。
男は私の手を離すと、腕を組んで私がなにか言うのを待った。目は誇らしげに光っているけれど、歯は食いしばっている。私が気に入るかどうか、いまいち確証が持てていない。正直なところは好みの景色ではなかったけれど、私は彼にとても素敵だと伝えた。男はぱぁっと顔をほころばせて、もう一度私を抱擁した。
それから、彼と私は黒いすじの上をたどって歩きだした。彼は私のことをじっと見ている。私はすじから足を外すのが怖くて、地面ばかり見ている。だから、私と彼の間で会話は弾まなかった。けれども、彼と道を歩くこと自体は楽しくて、特に気まずいこともない。気になることといえば、ガス灯を一本通り過ぎるごとに、火が弱くなっていることだけだった。
やがて、ガス灯の火がろうそくの火よりも小さくなってしまうと、今まで白く見えていた雪が、ぼうと青く光って見えるようになった。とても綺麗だけれど、黒いすじが見えにくくて困っていると、彼がまた私に手を差しのべた。
握った手は温かい。安心して目を閉じると、彼は私のことを導きながら歩きだした。もう黒いすじの上を歩かなくてもいいらしく、ふたりで気ままに足跡を残して回った。足跡からは青い光が失せてしまった。しばらくしてから、彼に靴の裏を見てみるように言われた。足を持ち上げてみると、靴の裏にはびっしりと青い光の粒が張りついている。地面で光っている光よりも、たくさん集めた分いくらか明るかった。これはとても綺麗だと本心を伝えると、彼はとても嬉しそうに頬を緩めた。
ベンチを見つけて、ふたりで座った。足を投げ出すと、明かりで道がほんのりと照らされて、これもまた綺麗だ。私が男に寄りかかると、彼は優しく肩を抱いてくれた。いつでもキスされていいと思っていたけれど、彼にはまだそのつもりがないらしい。静かに私の肩をさすりながら、もっと寒くなったら一緒に旅行へ行こうと誘ってきた。私はうなずいた。しかし、どうやら彼にその仕草が見えなかったようだった。しばらくして、私がなにも反応しなかったと思いこんだ男は、肩から手を外してベンチに置いた。
諦められてしまったのが少し悔しくて、今度は私が男のひざに手を置いた。彼は脚が長くて、私が前のめりにならないと届かない。握ったひざはとても冷たくて、この人のことを温めてあげたいと強く思った。スラックスの布一枚の距離が、とても遠く感じた。
どうしてひざを触るのかと、笑いながら彼が言った。私がなにも言わずになで回すと、くすぐったそうな笑い声を上げた。声はゆったりとした印象なのに、笑い声はずいぶんと子どもっぽかった。もっと聞いてみたくて、くすぐるようにひざを触っていると、彼も仕返しに私のひざをなでてきた。
ひととおりお互いのひざをなで終わると、靴の裏の青い光がだいぶ落ちていて、あたりがずいぶん暗くなっていた。そろそろ劇場に帰りたいと言ったのに、立ち上がった彼は来た方向と逆に歩きだしてしまった。仕方がないからついていくと、いよいよガス灯の火は消えて、雪に宿った青い光もどんどん弱くなった。
私が男と手をつなぎたいと思った時には、ついに暗闇になって、彼の手がどこにあるのか分からなくなった。どこにいるの、と声をかけると、思ったよりも先から返事が聞こえた。手を差しのべても届かない。どうして私の手を取ってくれないのかと聞いても、男は笑うだけだった。
その笑い声も途絶えてしまって、私は闇の中にひとりぼっちで取り残された。どうして私が男に見捨てられたのか、いくら考えても分からなかった。その場で泣いていると、惨めさがどんどん際立って、立っていられなくなってうずくまった。
そうしてうずくまってみると、地面にまだほんの少しだけ光る粒が落ちているのを見つけた。這いよって、その粒をつまみあげると、指先がしびれるほど冷たくなった。そして、私から温度を奪い取った粒は輝きを増した。心なしか、粒が大きくなったような気もする。粒を今度は手のひらに乗せてみると、やはり手のひらから感覚がなくなって、粒がもう一回り大きくなった。しかし、手のひらから温度を奪い切ってしまった粒は、しばらく眺めているうちに徐々に暗くなっていった。私は意を決して、その粒を口の中に放りこんだ。
レモンのような味がした。飲み下すと、全身に奇妙な感触が走った。まるで、体を内側からつねられたような感覚。そして、つねった部分を支点にして、渦巻き状にかき混ぜられていくような、あるいはねじを押しこんでいくような、さらに言えば、重力の方向が狂って全部が体の中の一点へ落ちていくような、とにかくその中心がさっきの光の粒であることは間違いようがない。
この感覚に身を任せすぎると危険だと直感して、私は無理矢理立ち上がって伸びをした。ぐいぐいと中心へ引っぱられるのに逆らうのは、かなり大変だった。それでも、伸びを止めないでいると、ブツッと糸がちぎれたような感覚とともに、重力がいつも通りの状態に戻った。粒の存在はまだ感じるものの、そこへ全てが引っ張られる感覚はなくなった。
ガス灯の火は元通り点っていて、道にはまんべんなく雪が積もっていた。私が歩いてきた分の足跡は残っているのに、男の足跡や、ひとすじの黒い跡はない。見上げると、空から新しい雪が降ってきた。この雪は積もることはないだろうと思った。すでに積もっている雪も、じきにとけてしまうと決まっているのが寂しかった。手のひらを差し出して雪のひとひらを受け止めると、私の手が冷たくなりすぎていたせいか、ほんの少しだけ温かかった。