喫茶店の店主は迷い子を導く
賑やかな街の外れに、一軒の喫茶店がある。
禿げ頭の店主は、どこか間の抜けた面持ちで、虚空を見つめている。私はカウンター席に腰掛けて、そんな店主をぼんやりと眺めていた。
この店主はいつもこうだ。こちらが注文したり話しかけたりしなければ一日中ぼんやりとしているんじゃないだろうか。
この店に通いだして三年になる。しかし、この変わっている店主の考えていることを、私は何一つ知らないままだ。
…………店主も、私のことなど知らないだろう。
私はたかだか十七年しか生きていない、何も知らない女の子だ。でも、これまで出会ってきた人の中で、ここの店主は大分変わっている部類に入る。もちろんそんな店主が営業しているお店も、随分おかしなことになっているんだけど……。
常につけている黒い腰巻は有名なラーメン屋の名前が書いてあるし、店内に貼ってある広告も、新聞や要らなくてもポストに入っているチラシから切り取ったものばかりだ。
極め付けはメニュー。ラミネートされたメニューを開くとそこにはただ一言『珈琲』としか書いていない。これではブラックなのかラテなのかエスプレッソなのかもわからないじゃないか。
ただ、注文するとちゃんとした珈琲がやってくる。カップソーサラーにティースプーンとカップは普通なのに、珈琲はそこらの喫茶店とは比べ物にならないくらいにおいしいのだ。その深さがわかるのに見せてくれない珈琲はまるで店主のよう。
この店の変じゃないところは、そこだけだ。
そして取り柄もまた、そこだけだ。
お客さんは少ない。店主の巨漢と強面、禿げ頭に不愛想という要素によって、新規のお客さんは逃げ出すことまではしないものの、リピーターが圧倒的に少ない。
お店の売り上げはリピーターが伸ばしてくれるのに……。
私みたいな変人がリピーターになることはあれど、ほとんどリピーターなしでよくここまで生き残れたなと思う。もちろん無くなられては、こちらが困ってしまう。生き残ってくれていることは非常にありがたいのだけれど……。
だから今日も、私はその店に足を運び、いつもの席で店主を眺めていた。
――――――でも今日は少しだけ特別な悪戯を仕掛けてみた。
*
スマートフォンでネットを巡回していたら、とあるまとめサイトが目に留まった。
いはく、
【鳥肌注意】浅田めぐみの名言集【号泣】
目に留まったのは、まあどうせしょうもない理由なのだこういうのは。昨晩の連続ドラマでも出演していたとかその程度……。
ちなみに浅田めぐみの演技を見た愚妹は、私が赤本を読んでいるのにもかかわらず
「すごい、やばい」
と言語が崩壊した感想を、『私の耳元』でかつ『大音量で』漏らしていった。
……はは、うざい。
つまり、『その演技は若手とは思えないほど真に迫って』いて、『心を揺り動かされるものがあった』と言いたいらしかった。ほほう。
ネットや新聞でも実力派としてその名を知らしめており、女優業のスターダムを駆け上っているような人だ。
どんな名言が載っているのだろうと、期待半分ネタ半分でタップする。
私のスマートフォンでは表示されるまでに少し時間がかかるようで、さっきからダウンロード中のぐるぐるgifが止まらない。暇つぶしに店主に声をかける。
「マスター、浅田めぐみって知ってる?」
店主は記憶をかき集めるように少し時間を置いた。やがて、
「澄んだ演技をするいい役者だ」
「え?」
私は開いた口が塞がらなかった。
この堅物店主がストレートに人を褒めるなんて、千年に一回あるかないか。
椅子を蹴飛ばす勢いで、目についた窓を開けた。顔を突き出して空を眺める。
「……む」
雲一つない快晴だ。雨が降る気配もない。冬の初めの冷たい風が、私の頬を撫でて通り過ぎて行った。
「雨は降らないぞ」
「見破られたか」
身体を引っ込めて窓を閉める。「ふぅ」とため息をついて熱を感じる頬を摩った。
店内の暖かい空気を感じながら、いつものカウンター席に着く。ダウンロードが終わったらしく、スマートフォンの画面には【鳥肌注意】浅田めぐみの名言集【号泣】が表示されていた。
スクロールしていくと、軽く経歴が書かれていた。家族構成や生まれた場所、幼いころに死んだ父が役者へと駆り立てた、とかうんぬんかんぬん。
その後に売れっ子らしい名言が並ぶ。役に対する意気込みとか演じる上での自分の考え方とかそういうやつだ。所々で閲覧者のコメントが小さい文字で入っており『まだ十七歳なのにすごい』とか『私も見習います』とか書かれていた。流し見していく中で、ある一文が目に留まる。
『私、下手なことが好きなんですよ。苦手なことほど楽しめるというか……』
そこまで読んで画面を閉じた。私は爪を立てて頭を掻き毟る。ああ、胸から怒号がせり上がってくる。絶対こんなこと思ってない! 確信できる!
できないことが楽しいだって? 人より劣っていることが楽しいだって? 頭の中に『志望校E判定』だの『全国平均にあと何点』だの『偏差値』などの記号が浮かんできて、それを打ち消すように拳を机に叩きつけた。
「マスター! 珈琲!」
私の怒鳴り声を聞いて店主は顔を顰めた。
「うるさい」
「いいじゃん、私たち以外誰もいないんだし」
「それでも静かにしてくれ、俺は集中しているんだ」
文句を言いつつも一応珈琲は入れてくれるみたいで、のそのそと準備を始める。
へぇー集中してたんだ、初めて知った。虚空に視線を彷徨わせることに集中できるってすごいですねぇ……。という反骨精神を目線に込める。
胸中穏やかでない私の感情なんて店主は知る由もない。「はいよ」と野太い声がして少し乱暴に珈琲が差し出された。
その珈琲カップの置き方もまた少し癇に障るが、気にしていても仕方がない。不満を珈琲と一緒に飲み込む。
「お前、いくつになったんだ?」
「十七」
「んじゃあ、進路決める頃だろ。どうすんだ?」
「進学に決まってるじゃない。私は大学に行って……」
「へぇ、勉強できんのかい」
ぐ、痛いところついてくるな、このくそじじい。
「まあ、できるんならこんなところで時間潰してないわな」
ぐぐ、無駄に鋭いな、このくそじじい。あとその厭味ったらしい笑顔が非常に腹立つのであとで復讐ノートに書いといてやる。
でも確かに私は勉強ができない。それは様々な第三者機関によって証明されてしまった。
認める以外の道はなかった。だけど、どうしても言い訳したくなってくる。
「だって勉強する意味が分かんないだもん。『作者の気持ちを述べよ』だの『微分積分』だの『徳川家将軍御一行様』だのは社会に出てどう役に立つわけ? それで優劣が付けられてあなたは弱者です~って宣告されてもこっちは苛つくだけだって!」
そんなことを叫んでいたら視界がぼやけてくる。
自分自身で勉強ができないことに怒りを感じて、勉強ができる周りの人を恨んでしまい、そしてそんな自分が非常に矮小に感じてしまって涙が出てきた。……ついでに鼻水も。
カウンターに鼻水を練り込むように顔面を擦る。「うわ汚ぇ」とか騒いでるけど知ったこっちゃない。
「下手が楽しいなんて嘘だよ。辛いだけだよ。どんなに頑張ったって頑張った分の成果が出るとは限らないし。自分より常に上がいて、失敗したときの事を考えると意味がない気がしてくる よ」
泣いている女の子を前にして店主はさぞ狼狽しているだろう。
…………と思って顔を上げると、
「……よし」
マスターは何食わぬ顔で珈琲を飲んでいた。しかも少々清々しい雰囲気も出している。
自分の入れた珈琲に自画自賛か、ばっかじゃないの。まあ私も人のこと言えないけど。
はあもうどうでもよくなってきた。どうせ私は何もできないし、何も残せないんだ。あーもういいんだもういいんだ。
子どものように拗ねる。カウンターに頭をのせて、ぐりぐり。
「俺には勉強する意味なんて大層なこと、よくわからん」
店主がいきなり喋り出したことに驚き、私は勢いよく顔を上げた。
「ただ、学生にとっての『勉強』は大人にとっての『仕事』と同じだ。頑張った分の成果が出るとは限らないところも常に上がいるのも意味がない気がしてくるのも同じだ。だがな勉強をすることによって『習得までの自分だけの過程』ってもんを身に着けることができればいいんだ。だからな今の内からその『習得までの自分だけの過程』ってもんを……」
「はああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
気持ちよく語っていたであろう最中に私の怒声が入り込んだので、店主は面食らった顔をした。カウンターを両手で思いっきり叩き、店主を睨みつける。
「仕事と勉強が同じ? あんたたち大人は仕事選べるじゃない。たとえ自分が望んだものじゃなくても自分で選んだものだからって納得できるじゃない。私たち子どもは選べずに大人の都合でそれをやらされて、挙句順位づけよ。大人の言うことを聞くいい子ちゃんランキングよ。馬鹿馬鹿しい! 私はそんなことに巻き込まれないわ。偉くなってこの世界を変えてやる。偉くなるにはまず色々知っておかなくちゃいけな……」
そこで私はようやく自分の論にもなっていない言葉が一回転していることに気が付いた。
「ん」
店主が目を閉じて首肯する。いつの間にか私は立ち上がっていたらしい。恥ずかしくなって、ついていない洋服の埃を払った。
「帰る」
いつも通り四百円をカウンターの上において足早に出口へと向かっていく。
店主は私の背中に投げかけるように言葉を放つ。
「理由なんてもんは千差万別だ。ああ、ちょっと待て……」
店主が少し乗り出しているのが見なくてもわかる。
「お前の生演技、初めて見たぞ。……上手いな」
見破られていた? いや違う、店主は知ってたんだ。
――――他の何者でもない私を見てくれていたんだ。
心が高揚していく。それを見透かされないように、
「うっさいバカ」
捨て台詞を吐いて、喫茶店の扉を素早く閉じた。
***
喫茶店の目の前に黒い車が横づけされている。私は開いている後部座席のドアから車内に滑り込んだ。自動的にドアが閉じる。
なめらかな木目上のハンドル、車体と同じ黒色の革シート、土埃が見つからない清潔な足元のマット、そのすべてが高級感を醸し出していた。
隣に座っている黒スーツを着た女性が「出して」と告げ、車はゆっくりと動き出す。
車の振動を感じながら、頬杖をついて車窓を眺める。
「浅田さん、もうよろしいのですか」
黒スーツを着た女性がためらいがちに聞いてきた。
………………この人誰だっけ?
まあいいか、別に誰が私の予定を管理しているのだろうと、知ったことじゃない。
「大丈夫、役は頭に入った」
面倒くさがって、必要最低限の会話だけで済ました。そして、私はまた車窓を眺める。
そうしていると私の意識はすぐに拡散していった。
受験に悩む高校生か……。店主のもとに来るまで、全然想像できない役だったけれど……。
なるほど。受験に悩む娘と父親の会話って、あんな感じなのかもしれない。
「……珈琲以外も、いいとこあるじゃん」
店主との会話を思い出して、私は人に見られないよう、こっそりと笑った。
高校の時、演劇部に所属していました。
物語に出てくるキャラになりきって演技をすると、キャラの本音と自分の本音が重なることがあって、「なかなか面白いもんだ」と思ったことがあります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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