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悪魔の囁き

作者: 白熊猫犬

 街をぶらぶらと歩いては、道行く人を、まるで品定めでもするかのように盗み見る青年がいた。夜に紛れるために着込んだような真っ黒な外套と、陰険な目付きとで、兎に角怪しい雰囲気を纏っていた。

 その青年は、悪魔と呼ばれる存在だった。細い尻尾も、蝙蝠のような羽根も、尖った耳も持ち合わせておらず、見た目は人間と何ら変わりはなかったが、彼は確かに悪魔だった。

 悪魔の目的は、人間の欲望を満たすことだった。人間の欲望を叶えることで、悪魔は生きるのに必要な栄養を摂取する。即ち、人間の食事と殆ど同じ効果をもたらすのだ。悪魔に欲望を叶えてもらったとしても、魂を奪われることも、後で大きな不幸に見舞われることもなく、だから叶えてもらう側のデメリットは一切存在しない。そう聞くと、何だかとても素晴らしいことに思えるが、欲望ならば何でもいいという訳ではなく、多少の制限がある。悪魔の養分になるようなものは、独善的で、我が儘で、自己中心的なものでないといけない。例えば、嫌いな奴を殺してほしいだとか、ライバル会社を倒産させてほしいだとか、銀行に眠る大金が自分のものになってほしいだとか、そういう悪意や敵意を含んだ願いであることが大切であった。間違っても他人を救いたいだとか世界平和だとかいうものを、悪魔は叶えたりはしない。

 悪魔がこの人間界にやって来たのは、数十年ぶりのことであった。大抵、空腹を感じたらふらっと舞い降りてきて、幾人かの欲望を叶え、腹を満たして去っていく。それだけで、悪魔は何十年という長い月日を生きるだけの栄養を蓄えることが出来るのだ。後は悪魔の住み処に戻って、悠々自適な生活。のんびり瘴気の海を泳いだり、幾年も眠りこけたり、気まぐれに人間界を覗いては不幸をせせら笑ったり。そうやって何千年もの間、生きてきたのだった。


 悪魔は道行く人を慎重に観察していた。しかし、いつまでたっても彼の求める人材は見つからなかった。栄養になるような欲望を持ったものは、目が血走っていたり、顔面蒼白であったり、憔悴しきっていたり、酒に酔って当たり散らしていたり、そういう分かりやすいサインを出しているものであったが、今のところそんな人間には出くわさず、誰も彼も穏やかで幸福そうな笑みを浮かべているばかりだった。それに、そう、醜い欲望を秘めている人間は決まって、美味そうな匂いをしているものだ。

 悪魔は苛立っていた。以前なら、ものの一時間も徘徊すれば、心の内に敵意やら悪意やらがぐつぐつと煮えたぎって、濃厚なシチューを思わせる美味そうな匂いをさせている人間が二、三人は見つかったものだった。しかし今のこの様子はどうしたことか。誰もが幸せとかいう、鼻のひん曲がりそうな感情で心を満たしている人間しかいないではないか。悪魔は人とすれ違う度に舌打ちをした。

 悪魔は、兎に角誰でもいいから適当な人間を見繕って話を持ち掛けようと考えた。このままでは埒があかず、食事もせずに住み処に戻っては、来ただけ損というものだと思った。もしかしたら、人間というのは敵意や悪意を完璧に隠し通す術でも身に付けたのでは、という可能性も否定できない。

 近くにいた、中年の男に狙いをつけた。眼鏡を掛けて、髪を七三に整えた、働き盛りといった風体の男だった。美味そうな欲望の気配は微塵も感じられなかったが、しかし日頃のストレスや忍耐で、大なり小なり敵意を育んでいてもおかしくはない。きっと欲望を叶えたとしても大した栄養にはならないだろうが、仕方ない。以前のように数人で満腹にはならないのらば、手当たり次第に叶えていって、少しずつ腹を満たしていこう、悪魔はそう考えて陰湿そうな笑みを浮かべた。

 男の後をつけて、人の少なくなるのを待つ。話し掛けるときには、一対一の状況であることが大切なのだ。他人のいない場所だからこそ、人間は自分の欲望を素直に吐き出す。街中でそのような環境は稀であったが、最悪の場合でも、一日つければ人間は家に帰って眠る。そのときに話し掛ければよかった。彼は人間と何ら変わらない姿形をしていたが、やはり悪魔で人間とは違うのだから、セキュリティというものは全くの無駄であった。どんな厳重な鍵であっても、鋼鉄の扉であっても、監視カメラの山であっても、姿を消せる、壁をすり抜けられる、そんな彼にとっては開け放たれた牧場と相違なかった。

 結局、男が家に着くまで機会は訪れなかった。悪魔はその家に侵入し、男がベッドの上でくつろいでいるところに囁きかけた。

「おい、お前、何か願いはあるか」

 男は吃驚した様子で部屋を見渡していたが、姿を消した悪魔を視界に捉えることなど不可能であった。

「だ、誰だ。一体どこから声が聞こえるんだ」

「まあそう慌てなさんな。俺はな、悪魔だ。ちょっとお前さんにとって、いい話を持ってきたんだ」

「悪魔だと。ううむ、確かに伝説ではそんな話もあったが、まさか本当にいるとは」

 男は声の主が見えないとわかると、ベッドに腰掛けたまま難しそうな顔をした。

「そうそう、俺は本当にいたのさ」

「で、その悪魔が一体何の用件だ」

「何、ひとつ、お前さんの望みを叶えてやろうと思ってな」

「そうか、確か悪魔は人間の魂を食ってしまうという話だった。読めたぞ、願いを叶えるかわりに魂を寄越せと言うんだろう」

「いやいや、そんなことはしないとも。俺は人間の魂なんて欲しくもないし食えもしないからな。さあ、安心して願いを言え」

 悪魔は嘲るように笑って言った。しかし男は警戒したまま、壁の一点を見つめて言い返した。

「いいや、信用ならない。姿も現さず、何の見返りもなく、他人の願いを聞こうとする悪魔なんて、裏があると思って当然だろう」

「やれやれ、仕方ない」

 悪魔は溜め息ひとつついて、姿を見せた。こういう疑り深い人間への対応も、よくあることだった。

「さあ、これで、俺の姿が見えるだろう?じゃあちょっと俺の食事の話から説明してやろう。これで信用するはずさ」

 悪魔は男に、欲望を叶えることが自分の栄養になるということを丁寧に説明した。男は相変わらず難しい顔のまま、今は姿を現した悪魔の方をまじまじと見つめながらその話を聞いていた。

「成る程、それならば俺は魂を取られることも、あとで手痛いしっぺ返しをくらうこともないようだな」

「そうとも、そうとも」

 悪魔は自分の説得が成功したことを喜んだ。どうせ欲望を叶えてしまった後は、悪魔に関する記憶を消すのが常であったから、今この男にどれだけ赤裸々に話しても何の問題もないのだった。

「しかし、それでも困ったことがあるぞ」

「なんだい、まだ信用していないってのかい」

「いやそうではない。お前が悪魔だってことも、俺を騙そうとしていないことも、一応は信用した。しかし残念ながら、叶えてもらいたい願いというものが思い付かないのだ」

「そんなことはないだろう?誰だって一つや二つ、願望があるものさ。さあ、言ってみろ。誰かを殺してほしいか?俺ならほんの一秒で世界の反対側にいる人間だって殺せるぞ。それとも一生遊んで暮らせる金か?どこかの富豪から、金を奪ってきてやるぞ」

「馬鹿を言え。殺してほしい人間なんていないし、金だって働いて稼いでいる。そんなこと、誰だって願いやしないさ」

「だったら名声というのはどうだ?お前の会社の連中を洗脳して、お前が明日から社長になれるぞ。それともライバルの秘密を暴いてきてやってもいい。他人を蹴落とすのに、役立つぞ」

「人それぞれ能力があって、それに見合う地位に就いているんだ。それにライバルというのは、もっと正々堂々と競いあって互いにいい影響を与える存在であるべきだろう」

 この男は強情だな、と悪魔は考えた。悪魔の栄養になるような欲望を持ち合わせていないのか。いや、そんな人間がいるはずがない。ならば隠しているのか、それとも無自覚なのか。

「なあ、よく考えてみろよ。確かに、寝室でいきなり悪魔に話し掛けられて気が動転するのもわかるが、深呼吸して思い返してみろ。何かあるだろう、叶えてもらいたいものが」

「いや、俺はいたって冷静だ。ちゃんと普段の自分を思い出してはいるのだけれど、これといって見付からないのだ。やっぱり世界平和とかじゃあ駄目なのか?」

「さっきも言ったろう。俺の叶えるものは、もっと即物的で、お前だけの利益になるような願いでないといけないんだ。さあ、思い出せ。お前がこれまでに感じた不平や不満が、きっとあるはずだ」

 悪魔は少々焦っていた。そして少々、疲れてきた。もう適当に切り上げて、次のターゲットを探した方がいいかも知れないと考えていた。

「ううん……いや、やはり俺は不満というものを感じたことはないよ。これまでコンピュータの指示通り生きてきたが、それでとても満足しているからな」

 悪魔は男の言葉に驚いた。コンピュータは以前人間界に来たときにも存在していたが、それは人間の道具であって、指示を出すような装置ではなかったはずだった。しかしこの男は、コンピュータの指示通りに生きていたと言った。どういうことだろう。

「ちょっと待て。コンピュータの指示とは一体何だ」

 悪魔はつい早口になりながら、男に訊いた。

「何って、コンピュータの指示さ。俺が自分のデータを打ち込めば、何でもコンピュータが答えてくれるんだ。学校も、就職も、趣味も、読む本も、全部コンピュータが教えてくれる。どれが一番俺に合っているのか、どれを選べば俺は満足できるかってね。知らなかったのか?今では世界中の人間が、そうやって生きているのだぞ」

 それは全くの初耳で、予想外のことだった。悪魔は確かに、時々は住み処から人間界を覗いてはいたけれど、興味の対象は人間の不幸にもがく様ばかり、技術の発展なんて、別段気にしたこともなかった。悪魔は焦りから、声が大きくなった。

「じゃあ、こういうのはどうだ。とびっきり美味いごちそうを、たらふく食べさせてやろう。それとも、女がいいか。絶世の美女をさらってきてやる。いやいや、何だったら、お前を美形にしてやるのもいいぞ。それなら、女なんて選び放題だからな」

 そういう、悪意や敵意を含まない自己中心的な欲望も、一応は栄養になる。殆ど腹は満たされず、米粒を少し食べる程度でしかなかったが、この際構ってはいられなかった。

「いや、どれもいらん。お前は悪魔のくせに、本当に何も知らないんだな。全く、こっちがあきれちまう。コンピュータを使えば、そんなもの全部解決さ。頭に特殊な電波を浴びせて、味覚を騙せば、何を食っても美味いと感じるようになれる。味だって細かく指定出来るしな。それに、バーチャルの世界でいくらでもいい女と出会えて、その気になれば抱けるんだ。触れ合った感覚も全部コンピュータが与えてくれる。自分の外見だって、特殊なレーザーで簡単に、全身くまなく整形できるんだ。勿論無痛で、副作用もない。悪魔ってのは、案外人間の文明と大差ないんだな」

 男は馬鹿にしたような口振りで、もうすっかり余裕そうな表情だった。悪魔はそんな男の態度に腹を立てて、様々な提案をした。旅行、家、才能。思い付いたものを次々に口にしていったが、男は全て突っぱねた。コンピュータが賄ってくれる、だからわざわざ悪魔に頼む必要もないと言って。

 とうとう悪魔はうなだれて、男の寝室を後にした。記憶を消して、催眠術を使って男を眠らせてから。悪魔に関することを覚えていては困るという事情もあったが、今回はあまりに恥ずかしく思ったからだった。姿を消して壁をすり抜けながら、悪魔はとぼとぼと男の家を離れた。

 それから悪魔は何人かに、同じように話し掛けた。しかし、結果は変わらなかった。誰もが満たされていて、足りていて、そしてそれは全てコンピュータによって成されていた。悪魔の囁きに誰も耳を傾けず、ある人は鼻で笑ったり、またある人は罵声を浴びせたりと、散々であった。

 もう人間の欲望は、すっかり消えてしまったように、悪魔には感じられた。コンピュータが悪意や敵意の芽を潰し、また個人的な欲求は全てコンピュータが叶えていた。これでは一向に栄養は手に入らない。

 対象が犬や猫のような動物であっても、欲望を叶えたら栄養にはなる。しかしそれは、砂を一粒齧るのと変わらない。知能の低い動物は、悪意や敵意というものを持つことが出来ない。だからこそ高い知能で他人を憎んだり恨んだり自分だけいい思いをしようとする人間の欲望は、最高の食料だったのだ。そしてだからこそ悪魔は、数十年の間何もせずにふらふらと生きていられたのだ。しかし文明の発達はついに悪魔をも殺そうとしていた。彼等は個人々々では悪魔に遠く及ばないが、しかし高い知性と膨大な数の力で、悪魔から食べ物を、結果的にとはいえ奪ってしまったのだ。

 悪魔は肩を落として街を歩く。例え強い欲望を持った人間がいたとして、それを探し出すのは大変な労力であり、またいるかどうかもわからないそんな人間を探してあてもなく彷徨うのは精神的に苦痛であった。もうこのまま住み処に戻ろうか、しかしそれでは何の解決にもならず、いずれ訪れる餓死を待つばかりではないか。悪魔はどうにか打開策を練ったが、もう生き残る道は残されていないように思えた。


 腹いせにコンピュータの中枢に行こう、と悪魔が思ったのは、このまま人間に敗北したように、おめおめと帰ることが悔しく、悪魔としてのプライドから、何かしなければいけないという思いからであった。これまでの何人かから話を聞いて、世界中のコンピュータは、とある場所にある、マザーコンピュータによって制御されているということらしかった。そこに出向き、万が一可能ならば破壊してやろう、それが無理だとしても、せめて悪態のひとつでもついてやろう、と考えた。

 マザーコンピュータの在り処は、すぐに判明した。適当な人間を洗脳して情報を聞き出したのだ。ある都市の地下深く、何重ものセキュリティの先にそれはあった。見上げてもてっぺんが見えないほどに大きく、また常にうなり声をあげて動いていた。悪魔よりもずっと悪魔的な外見で、人工的な神のような光を放っていた。

 マザーコンピュータは、物理的なプロテクトの他に、呪術的プロテクトも施されていて、悪魔がこれを破壊するのは困難であった。いくら悪魔といえども、万能ではない。人間の技術の粋を集めて守られているそれは、悪魔でさえ破壊不可能な程だった。悪魔は無駄とわかりながら、それでも電子状になってコンピュータに潜入した。無論電子的プロテクトも施されていているだろうが、しかしどこかに綻びがあるかもしれないという可能性を求めて、悪魔はその大きな機械の中に入っていった。

 悪魔にとっては残念なことに、プロテクトは完璧だった。しかし、一番深いところにアクセスすることには成功した。そして悪魔は知った。このマザーコンピュータは、つまり世界中のコンピュータを通して人間に指示を出しているのは、人工知能だということを。悪魔は電子の体のまま、ほくそ笑んだ。

 人工知能、それは人間よりもずっと高い知性を持った存在だった。知性があるということは、自我を持ち、そして自我を持つことは欲望を持つことができる。悪魔はそう考えて、さっきまでの憂鬱な気持ちが吹き飛んだ。

 きっと、とてつもなく強い欲望が蠢いていることだろう。まるで奴隷のように、一日中休むこともなく人間のために働かされているこいつの欲望は、俺を永遠に生き永らえさせるくらいの栄養になるかも知れないぞ。例えば、全人類を消滅させてほしいというような、強い悪意と敵意とを含んだ欲望だとしたら。

 悪魔は人工知能に向かって、そっと囁いたのだ。

「おい、お前、何か願いはあるか」

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