歓喜の時間
記録作業は、三時間続いた。
石の全周を撮影し、紋様のパターンを書き起こし、成分分析用のサンプルを採取する。普段なら退屈に感じる作業も、今日は全く苦にならなかった。
「よし、ひとまずここまでだ」
高橋さんがカメラを下ろした。
「大学に連絡して、本格的な発掘チームを呼ぼう。これだけの発見なら、予算も人員も問題なく確保できるはずだ」
「はい」
俺は携帯を取り出そうとして、ふと気づいた。
「あれ、圏外だ」
「ああ、ここは山奥だからな。上まで行かないと電波が入らない」
「じゃあ、俺が行ってきます」
「頼む。俺はここで石の警備をしてる」
俺は遺跡を出て、山道を登り始めた。
足取りは軽かった。いや、軽すぎるくらいだ。このまま走り出したい気分だった。
考古学者になりたいと思ったのは、中学生の時だ。教科書に載っていた縄文土器の写真を見て、なぜか心が震えた。何千年も前の人間が作ったものが、今もこうして残っている。その事実が、たまらなく愛おしかった。
でも、現実は厳しかった。
考古学なんて食えない学問だと、親に反対された。就職先がないと、友人に笑われた。それでも俺は諦めなかった。奨学金を借りて大学に進み、バイト漬けの日々を送りながら、なんとか大学院まで進んだ。
そして今日、ついに報われた。
あの石は、間違いなく俺の人生を変える。論文を書けば、学会で注目される。就職先も引く手あまただろう。何より、歴史の真実に、一歩近づける。
「やった、やったぞ」
思わず声に出して、ガッツポーズをした。
山の頂上に着いて、携帯の画面を確認する。よし、電波が入った。
大学の研究室に電話をかけようとして、俺は手を止めた。
下の方から、エンジン音が聞こえる。
「こんな山奥に、車?」
嫌な予感がした。
この遺跡は、まだ公表されていない。つまり、ここに来る理由があるのは、俺たちだけのはずだ。
「まさか、盗掘者……?」
慌てて山道を駆け下りた。
息が切れる。足が縺れそうになる。それでも走り続けた。
遺跡の入口が見えた。そこには、見慣れない黒い車が三台、停まっていた。
「高橋さん!」
叫びながら遺跡に飛び込んだ。
そして、目の前の光景に、俺は凍りついた。
黒いスーツを着た男たちが、五人。全員がサングラスをかけ、無表情で立っている。その中心に、高橋さんが立たされていた。両腕を掴まれて。
そして、あの石は。
「返してください!」
俺は叫んだ。
石は、既に特殊なケースに入れられていた。男たちの一人が、それを運び出そうとしている。
「君が篠原ケンジ君か」
低い声が、俺を制した。
男たちの中から、一人が前に出てきた。四十代くらいだろうか。鋭い目つきで、威圧感がある。
「国家安全保障局の者だ。この石は、国家機密に関わる物品として接収させてもらう」
「国家機密? 何を言ってるんですか。これは考古学的発見で――」
「それ以上は言わない方がいい」
男の声が、一段と低くなった。
「この遺跡の存在は、今後一切の公記録から抹消される。君たちも、ここで見たものについて、一切口外しないことだ」
「そんな、馬鹿な……」
俺の声が震えた。
「高橋さん、何とか言ってくださいよ」
でも、高橋さんは黙ったままだった。いや、黙らされている。顔面蒼白で、明らかに怯えていた。
「深入りするな。君の将来のために」
男は、そう言い残して背を向けた。
石を運ぶ男たち。それを見送る高橋さん。何もできずに立ち尽くす俺。
エンジン音が遠ざかっていく。
遺跡には、俺と高橋さんだけが残された。
「先輩……」
「すまん、ケンジ」
高橋さんの声が、震えていた。
「俺たちは、触れちゃいけないものに触れてしまったのかもしれない」
その言葉の意味を、俺はまだ理解できなかった。
ただ、運命の歯車が、音を立てて回り始めたことだけは、確かだった。




