表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

Before the Final Exam

これは彼女がプロの殺し屋になる前の話。

「この銃を手に取ってみて」

目の前に座っている、脂っこくてずんぐりとした禿げ頭の男が私を試すように言った。

「ええ」

私はこんなこと何でもないんだ、というような体裁を取り繕って言った。震えはしないまでも、汗がジワリと滲んだ左手で私はその、生物の抜け殻のような黒い塊を持ち上げてみせた。手の感触はひどく曖昧だった。手は確かにそれを持っているのだけれども、その手が自分のものではないように感じるのだ。

「人を殺す、という行為はそれをしようとしている者にとって、それほど簡単なことではない」男は諭すように言う。癇に障る言い方だ。

そこにウエイトレスが場を弁えずにやってくる。そして何も知らない、聞いていないというように、「ご注文はお決まりでしょうか?」などと訊いてくる。

「ブレックファースト・セット一つとコーヒー」男が言う。私はお腹が減っていないので首を振る。こうして注文が無事に終わると、ウエイトレスは注文の再確認を機械的に済ませ、そそくさとキッチンの方へ去っていった。

「朝食を摂る前にぱっと済ませてしまえるようなものではない。ましてや、朝食につけるコーヒーを温めている間に済ませてしまえるようなものでは決してないのだよ。分かるかね? 君が思っているほどそれは簡単ではないんだ」

そんなことは分かっている。本当に癪に障る男だ、と私は思った。これまでの試験でそんなことは嫌というほど味わっているのだ。いちいち言われなくたってそんなこと理解している。それでも私はPrussiaになると決めたのだ。それはどんなことがあっても変わらない。お前みたいになめ腐った禿げおやじにとやかく言われるような半端な覚悟でここまで来たわけではないのだ。私はかなり苛立っていた。それに気づいて、その苛立ちが顔に表れていやしないかと私は慌てて確かめる。

「それでも君はPrussiaになると決めた」男はそのぎょろりとした目をこちらへじっと向けてくる。それだけでも気分が悪くなってくる。

「そうです。決めました」銃を握っている右手の汗は先ほどよりも増していた。おかげで手はぬめぬめとして、危うく銃を落としそうになった。そんなことになれば、この男にどんな言葉で罵られるのか分かったものじゃない。

「それならよろしい。最後にそれを確認しておきたくてね。君の決意はよく分かったよ。もちろん、最後の試験まで残るような素晴らしい人材は半端な覚悟で臨んでいないことは百も承知なんだ。しかし、最後の最後にもう一度、ね。何も確認に確認を重ねることは悪いことじゃないだろう? 減るものでもないし」男は禰目回すような、じっとりとした口調で話してくる。

「本当の用件は何なのです?」私は苛立ちを極限まで隠しながら言った。

「_____銃だよ」男は言う。

「その銃で私を殺すのさ。最終試験まで残った君になら、造作もないことだろう?」

「…は?おっしゃっている意味がよく分からないのですが」私は苛立ちを我慢しきれずに少し漏らしてしまった。そして同時に私は少し困惑していた。_____こいつを殺す?私が?今この状況で?どうして試験でもないのにそんな面倒なことを?

「ふふふ…。少し混乱しているようだね。まあ、気楽に考えてくれよ。これは最終試験の洗礼のようなものさ。何も難しいことじゃない。それに、なあ、知っているかい?」男は臭そうな、いや、実際に臭い口をニヤリとさせて言った。

「Prussia全ての試験の脱落者のうち、死者の割合が最も少ないのが最終試験なんだよ。これがどうしてだか分かるかい?」

「分かりません」本当に面倒臭くなってきて、適当に答えた。

「…辞退するんだよ。皆が皆ね。もちろん先ほども言った通り、最終試験にまで残るような人は中途半端な覚悟を持ち合わせてはいない。すなわち、それ程凶悪なバケモノが最終試験には潜んでいるということさ。そこでだ」男は指を組んで、肘をついた。

「最終試験の前にちょっとした度胸試しに私を殺してみろ、というわけだ。悪い話じゃないだろう? ここに銃もあるし、君に覚悟もある。簡単だろう? さあ、やるんだ」

「待って下さい。任務外の殺人は正当化されていません」私は冷静に言った。本当はこんな臭い禿げおやじなんてさっさと死んで欲しいけれど。

「私にはバッジがある」男はPrussia公認のバッジを懐から取り出して、こちらに見せた。純金でできた半径2cmほどの円盤にPrussiaのマークが刻印されている。

「しかも一等級のバッジだ。このバッジの力は君も知っているだろうが、あらゆる殺人を正当化することができる。さらに、その効力を一時的に他人に譲渡することも許されている。これがここにあれば、何の問題もない。君は最終試験を受ける前に豚箱にぶち込まれることもなければ、極刑に処されることもないわけだ」

「しかし…」

「…いけないなあ。実によろしくない。こんな殺し程度でうだうだ言っているようでは、最終試験は即脱落だろうな。君の覚悟はその程度だったのか」

たじろぐ私を男は嘲笑するように言い放った。そしてまた臭い口をニヤリとさせてくる。男はどんなものに私が生理的な嫌悪感を示すのか知っているようであった。普通の人間相手だったら一発ぐらい殴ってやりたいところだが、この男相手にはそれすら憚られる。きっと男はそれらを全て知ったうえで話しているのだ。

「…私は任務中にしか殺しはしません」それでも私は頑なに拒否する。そうだ、私が殺し屋である限り、殺しという行為は完全にコントロールされた条件下で行わなければならない。朝食を準備する前に済ませる洗顔のように、朝食のベーコンを焼いている間に淹れるコーヒーのように完全に掌握されていなければならないのだ。

「任務中ならできる、本番ならできる、なんて言っているような奴は大抵、いざその時になると何もできないものなんだよ。ゴミさ。停電になったときに点かない懐中電灯くらいゴミだ。君はそんな人間ではないと私は思っていたんだがね」男は落胆したように言う。しかし、その語気とは裏腹に意地でも私に殺しをさせようとするしつこさを感じ取ることができた。

「任務外の殺人はしない、これは私のポリシーです。曲げることはできません」

「ポリシー、ね」男は顎にできたにきびを潰しながら言う。

「この先君が守り抜くことができるものはただ一つだ。Prussiaを目指す以上、君が貫くことができるものは、たった一つだけなんだ。君はその一つにそれを選ぶことはできるか?」

「どういうことです?」私がそう言いかけたとき、タイミング悪くさっきのウエイトレスが現れる。

「ブレックファースト・セットとコーヒーは?」

「私です」男は毛の処理が行き届いていない手を軽く挙げて、小さな声で言った。

「私が注文しました」

「ごゆっくり」ウエイトレスはブレックファースト・セットとコーヒーを男の目の前に置くと、そう言ってまたキッチンの方へ消えていった。

「…話を戻そう。とにかく一つなんだ。もし君がそのポリシーまがいのものを選ぶのであれば、ここで私を撃たなくとも構わない。…しかし、君は選べるか?それ以外のことを全て差し置いて、それだけを守り通せるか?その覚悟はあるのか?」

私は男のその言葉を頭の中で反芻していた。私が本当に守りたいもの、貫きたいもの…それは一体なんだ?一体どこにある?

「Prussiaになるということは非常に稀有で特別な存在になるということだ。そこへは泥に、血にまみれて、腐るところまで腐りきって、全てを棄てて、初めてたどり着ける。君が守ることができるものはただ一つ、それは絶対に変わらない。変わらなければいけないのは君の方だ。君という殻をぐちゃぐちゃに、原型をとどめないほどに破壊して、ちっぽけな中身だけになるんだ。最終試験を突破するということは、ある種そういうことだと思っておいた方がいい」

男はそう言い終えると、先ほどまでの汚らしい饒舌さとは打って変わってしばらくの間沈黙した。私は少し考える。そうか、と私は思った。最終試験ではこの男の言うように、私が私自身を喪失するようなことが起こるのかもしれない。私という人格が破壊されるような、そんなことが。もちろん、この男が口から出まかせを言っているのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。大切なのはそういったことが起こるかもしれない、と覚悟を決めておくことなのだ。たとえ本当にそうなったとしても受け入れられる覚悟が。

「分かりました。やります」私は言った。男は少し驚いた様子を見せたが、すぐにそうなることが分かっていたかのような、勝ち誇った表情を見せた。

「…待っていましたよ、そう言ってもらえるのを。さあ、どうぞ。いつでも君の好きなタイミングで」男は嬉しそうに、本当に嬉しそうにニヤリとした。微かに男の口臭が感じられたが、苛立ちや嫌悪の感情は私からすでに消え失せていた。

「…私ね、こんな容姿だろう?」

私が左手で銃を持ち上げるとほぼ同時に男はぽつり、と話し始めた。男の顔からはさっきまでの嬉しそうな表情は消えていた。

「だから子どもの頃にはよく虐めの標的になったりしてね。辛かったよ。でもね、不思議なことに年を経ると今度は私の近くに寄るものはいなくなっていった。どんな環境に居ても、私だけ蚊帳の外なんだ。本当に孤独だったよ。周りの人たちはまるで私がいつ爆発するか分からないダイナマイトをいくつも体に巻き付けている人間かのように扱うんだ。そして、そうなってくると今度は虐められていたときの方がまだ幸せだったと思うようになってくる。真の苦痛というのは何かを感じることではなく、何も感じられなくなることなのだよ。…分かるかね?いや、分かるはずないだろうね。君は整った顔立ちをしている。そういう人間には私のような醜い人間の苦しみなど到底理解できるはずがない。…だが不思議なものだな。こうやって私の人生を縛り付けていたコンプレックスもいざ君に打ち明けてしまうと、それはそれでどうでもいいことのような気がしてくる」

男はときどき注文したブレックファースト・セットを口に運びながら、それでもほとんど途切れることなく話し続けた。私はそれを黙って聞いていた。

「それにしても、このオムレツはうまい。ケチャップなんかなくても十分いけるなあ。生まれて初めてだよ。こんなうまいオムレツは」

それから男は何回かオムレツを口にした。しかし、最後までは食べきらず箸を置いた。

「…ところで、私がPrussiaになっても一つだけ守り抜きたかったことは一体なんだと思う?…ああ、これは愚問だったな。今まさに起こっていることこそがそれなのだから」

「私は容姿の整った女に殺されて一生を終えたいとずっと願ってきた。そして、それ以外のすべては棄ててきた。そうだとも、全部、全部棄てた。…でも、これだけは譲れないのだよ。これだけは_____」

銃創が一つ、男の脂ぎった額に出現し、男の喉からはうぶっ、とげっぷのような断末魔が聞こえた。銃弾は貫通しなかった。大量の血液がテーブルに飛散し、食べかけのオムレツにケチャップのようにかかった。コーヒーは血と混ざり、カップから溢れた。男の頭はサラダに突っ込み、それはそれでメニューにありそうだな、と思った。頭部サラダ。ないか、そんなもの。

この一連の出来事の後始末は組織に任せることにした。そして私はもう一度男が所持していたバッジを確認してから、テーブルに一万円札を置いてその店を出た。カラン、と乾いたベルの音が鳴り、同時にいくつかの視線を感じたが、無視した。人の波に紛れ、私はその街から姿を消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ