HARU
シングルファザーの僕は彼女と週に2、3度夢の中で会う。
そんなあるとき彼女は自分が「殺し屋」であることを僕に告げる。
「君ってまじめだよねえ」彼女は僕に言った。
「どうしてそう思うの?」僕は戸惑った。今まで一度だってそんなことを言われたことがなかったからだ。
「だってさ。毎日夜中に仕事をして、帰ってくるのがいつも朝方になるんでしょう?
そして朝早く子どもたちを学校に送り出してから、やっとベッドに入ってここに来る。それでもって、この夢の世界でも私なんかのために親身になって悩みを聞いてくれる。君ってまじめだよ。本当に」
「僕はそうは思わないけどな」僕は少しばつが悪くなって言った。
「要するにさ、それはきっと僕があまり難しいことを考えたくないからなんだと思うよ。何も考えないで夜中に仕事をして、朝に子どもたちを送り出して、昼間にこうやって夢の世界に入ってくる。そんなことを繰り返すだけの単調な毎日が僕にとってはすごく楽なんだ。だからさ、僕はまじめなんかじゃない。ただ…つまらない人生を送る、つまらない人間なんだ」
本当にその通りだった。あれこれ何かを考えながら生きていくには、僕はあまりにも疲れすぎていた。その単調な毎日は僕に何の恩恵をもたらしてはくれなかったが、それと同時に何の害も及ぼさなかった。僕はそれでよかった。僕にはもう何もかもどうでもいいように思えていたのだ。
「私ね、実はプロの殺し屋なの」彼女は唐突に言った。その言葉があまりにも唐突だったので、僕がその真意を訊き返すまでに少し時間がかかった。
「何だって?今なんて言ったんだ?」
「だから、私は殺し屋なの。殺しを仕事にしているプロの殺し屋。ま、副業なんだけれどね。驚いた?」僕は何も言わずにゆっくりと頷いた。いきなりそんなことを言われてもなかなか信じられるものではない。
「もしかするとね、」と彼女は続けた。
「私と君って正反対の人間なんじゃないかって思うの。でもね、それと同時にある面において私たちは全く同種の人間なの。うまく言えないけれど、そう思わない?」
「…殺し屋っていう仕事はね、平穏な毎日とは程遠いものなんだけれど、ある絶頂のような点を越えてしまうと途端に単純な作業に還元されてしまうのよ。二週間前に殺した男と昨晩殺した男に区別が付けられなくなってしまうの。境界線がひどく曖昧になって何が違うのか分かるようで分からなくなるの。あなたの毎日と同じね。私たちは正反対に見えるけど、きっとどこか強烈に似ているのだと思うわ」
「よく分からないな」
「べつに今は分からなくたっていいわよ」彼女は俯きながら、つまらなそうに言った。そう彼女が言い終えてから数十秒の沈黙があった。冷房の送風でコーヒーの水面が揺れる。
「それよりね、私、今とっても深刻な悩みがあるの」彼女は沈黙に耐えかねたのか勢いよく言った。
「話してみてよ」若干彼女に気遣いながら僕は言った。
「私ね、どうやら君を殺さなくちゃいけないみたいなの。もちろん殺し屋として」
彼女はそう言い放つと、右のポケットから徐に黒光りした鉄の塊を取り出し、それをゆっくりと僕の額に当てた。その鉄の塊は僕にはひどく冷たく感じられた。その冷気は鉄の塊から発せられているものなのか、それとも僕自身から吹き出ている汗が気化し感じられるものなのか、よく分からなかった。
「私、まだ迷っているのよ。仕事とはいえ、本当に君を殺してしまっていいのかって」彼女の声は鉄の塊を伝って僕の脳に直接響いているように感じられた。そのせいか、それはいつもよりいびつで変性したように聞こえた。
「君って私にとってすごく大切な存在だし、失いたくないと本気で思っているのよ。でもね、君をこの世界から消して欲しいって依頼されちゃった。ごめんね。私ね、これでも仕事とプライベートをよく分別している方だと思う。だから友達でも恋人だとしても依頼されればちゃんと仕事はこなしてきたの。でも、今回のことはうまく切り離して考えることができなかったんだ」
じゃあ見逃してくれよ、と僕は心の中で思った。だが、今では痛みを感じるほどに強力になった冷気に言葉が出ることはなかった。
「ねえ、なぜ君はどこかの誰かさんに命を狙われる羽目になってしまったんだと思う?何か心当たりはあるの?」
僕はゆっくりと首を横に振った。そんな心当たりがあってたまるものか。
「そうよね。人に恨まれてしまう人間って三種類に分けられると思うの。一つは能力が秀でている天才。もう一つは性根の腐ったようなクズ人間。最後は…」
「最後は?」
「…人格者よ。すごく人のいいあなたみたいな人間」
「だから僕は命を狙われていると?」僕はすぐに言い返した。
「だから、とは言わないけれど…そういう人ほど恨まれる心当たりがないものなのよ」彼女は小さなため息つき、そして続ける。
「…人間っていうのはさ、結局どれだけ努力したところで辿り着けるところなんて最初から大体決まっているものなのよね、きっと。人間の能力なんて八割くらいは先天的に決まってしまうと思うし、残りの二割だって中学を卒業するくらいまでにはほぼ決まってしまうものなのよ。後はいくら努力したって雀の涙程度にしかならないの」彼女は失望したような冷たい声で言った。声色は冷め切ったコーヒーのようだった。
彼女がそんなことを言うのには、きっと何か理由があるのだと思った。幼いころに自分の能力に不満を持ったり、失望したりすることでもあったのだろうか。そんなことを僕が考えている内にも、相も変わらず銃口は僕の額へと向けられていた。
「君は自分の能力について、何か考えたことはあるかしら?」彼女は言った。彼女の質問は抽象的だったが、僕は体勢を崩さずにそのまま少しの間考えて、それから答えた。
「ないと思うよ。僕はその他大多数の人たちと同じような能力しか持っていなかったから。勉強だって、スポーツだって、それから芸術だってそれなりにできていたし、だからといって特別秀でていたわけでもない。だから多分考えたことなんてないよ、自分の能力についてだなんてさ」
彼女は僕がそう言った後、少しの間黙っていた。その間に僕は改めて今起こっている奇妙な事態について考えを巡らせようとした。しかし、僕は自分で思っている以上にひどく疲弊しているようだった。考えようとしても途端に脳の回路がシャットダウンしてしまうのだ。僕はこの再起動のループを七、八回繰り返したところで諦めた。いいじゃないか、物事の意味など理解しなくても、起こるべきことは実際にこうして起こってしまうのだから。ちょうど物理学を知らなくても、宇宙の法則に従って我々は生きているのと同じように。
「きっとそういうのって楽でしょうね」彼女は話し始めた。
「何を心配しなくても成り行きで全てがある程度うまくいくのって。ねえ、聞いて。私が殺し屋になったのはね、他に何の才能もなかったからなの」
「私は小さい頃から本当に何もできない人間だったの。本当に何もよ。何をやってもダメだった。先生からも両親からも見放されて、友達なんてできるわけなかった。孤独だつた。果てのない暗黒のような孤独。しかもね私、実は子どもの頃はアイドルになるのが夢だったの。笑っちゃうよね。ほんと自分でも笑える。こんな女が何言ってんだよ、って感じだよね」
僕はそれを否定しようとしたが、彼女は気にしていない風で話し続けた。
「でもあるとき、小学生高学年のときだったかな。前にも後にもたった一つだけ、本当に唯一の自分の才能を見つけることができたの」僕は息を呑んだ。
「私、飼っていた犬を殺したの。水に沈めて、溺れさせて。すごく可愛がってたなあ、懐かしい。名前はハル、っていうの。男の子よ」
僕は目をつむった。ハル、僕は彼女に殺されたハルのことを想った。瞼の裏の暗黒には水面が映し出され、いつの間にか僕はハルになっていた。
首の付け根を押さえつけられ、僕は震えていた。水はいつもとは違う属性をまとい、僕の眼下に広がっていた。とても攻撃的な水の属性を僕は感じ取る。怖い。次の瞬間に水面の境界線を越えて、空気とは隔絶された水中の世界へと無理やりねじ込まれた。このままもう二度と空気を吸うことができないと思うと、途端にひどく不安で胸を締め付けられるような寂しさを感じた。
しかし、再び僕は強引に引き戻され空気を吸うことができた。暫しの別れの寂しさを埋めるように僕はたくさんの空気を肺に送る。それから間もなく僕は水中へと押し入れられ、また引き戻される。それが何度か繰り返されるうちに空気と水中の境界線が分からなくなり、生と死の境界線も分からなくなった。いつの間にか僕は死んでいた。
「ハルは数日後、水死体で発見されたわ。お父さんもお母さんももちろん一緒に悲しんだ。お墓も作ってあげたのよ。でもそこで私は気づいたの、心の奥では何も感じていないことに。どうして自分が泣いているのかもよく分からなかった。きっともうそのときには心は壊れていたんだと思う。そしてやっと私にできて他の人にはできないことが見つかったって思ったの。他人が躊躇ってできないことだって私にはできるんだと思った。何も感じていなかったってさっきは言ったけど、違ったわ。そのとき私、きっと嬉しかったの」
「君は何かを殺すことが好きなのかい?」僕は悲しみを込めた声で言った。
「…分からない。よく分からないの。元々先天的に殺すことが好きだったのか、それとも自分の存在意義を見つけることができたから好きだと錯覚してしまったのか。どちらにしても今では単純な作業になってしまったから好きとは言えないのかもしれないけれど」
「でもね」彼女は左手に力を込めた。
「君を殺さなきゃいけない状況で私、少し高揚している気がするの。退屈な日々から君が連れ出してくれるみたいで。君の命を引き換えに、たった一回のチャンスだけれど。きっと君は私の居場所の一つだったんだと思う。でも、この仕事も私の居場所の一つなんだ。…だから、ごめんね」
彼女がそう言い終わるのとほぼ同時に僕は「こちらこそ、ごめん」と言った。
そしてズボンの右ポケットに忍ばせていたナイフを彼女の胸に思いきり突き立てた。彼女は一瞬驚いた素振りを見せたものの、間髪入れずに応戦し銃弾を二、三発はなったものの僕へは届かなかった。僕は大切にしていたそのナイフを彼女の胸に譲ってやった。ナイフは彼女へと深く深く突き刺さり、彼女の左乳房を貫いた。




