9. 9月がやってきた
待ちに待った9月が、やってきた。
玄関は今年こそは飴売りの少年にちゃんとあいさつをし、彼の名前を聞き、自分の名前もいい、来年も来るからと伝えたい。
玄関は地震に正しい挨拶の仕方を教えてほしいと頼んだ。
地震が手本を示す。
こんにちは。
あなたの名前は何ですか。
わたしの名前は、ツルです。
工房で、絹絨毯を織っています。
困っていることはないです。
いじめられて、いません。
この鶴の飴は、おいくらですか。そのあめ、ひとつください。
来年、また来ます。
お元気でいてください。
玄関は習った言葉を暗記する。
いろんな会話のパターンを考えて、何度もリハーサルを繰り返した。
そして、ようやくその本番の日がやってきたのだ。
朝から、玄関のどきどきが止まらない。
玄関はアーニャとふたりの下男、それに織子とともに、市場に出かけた。
市場の真ん中で自由行動になり、買物をする。何か困ったことがあった時には、入口近くの看板のあるところに戻ってくるという取り決めになっている。
それより何より、何かいやなことがあったら、大声で叫べと教えられている。
玄関と散歩は地震を真ん中にして手をつないで、飴屋に向かった。
ところがお昼前だというのに店が片付けられていた。
「どうしたんじゃ」
玄関が思わず、ふたりの手を放して駆け寄った。
あの子がいない。
玄関はその場に立ち尽くした。世界中で、たったひとりになった思いがした。
でも、少年は木の下に座って待っていて、玄関を見ると手を振って、うれしそうに立ち上がった。
「いつ来るかなって、待っていんだよ。さっきお客さんが来て、ひとりで全部買ってくれたんだよ」
そうだったんだ。
「はい」
玄関は屋台が見えなかった時、もしも会えなかったら、どうしようかと思って、泣きそうになっていた。
「どうしたの?泣いているのかい」
「いいや。泣いてない」
彼は笑って仕事箱の蓋をあけて、中から鶴の飴を取り出して、
「取っておいたよ」
とわたしてくれた。
「こんにちは。このツルの飴は……じゃなくて、えーと、あなたのお名前は何ですか」
はじめはとちったが、何度も練習してきたおかげで、途中からはすらすらと言えた。
「ぼくはジャミルだよ」
「わたしは……ゲンカン」
ツルと言うべきなのに、上がっていたから暗記した名前は飛んでしまった。
「ゲンカンと言うんだね。いい名前だね」
「いい名前ですか」
「うん。いい名前だよ」
玄関は赤くなって、もう玄関でいいやと思った。嫌いだった名前がとたんに好きになった。
「ゲンカンはいくつ」
「13」
「うん。来年は14だね」
「はい。ジャミルは」
「16。来年17歳だよ」
「はい」
「来年、ゲンカンは14歳でぼくは17歳だよ」
ジャミルが繰り返して、ひときわきれいな笑顔を見せた。
「早く来年になったらいいね」
ジャミルがきらきらした瞳で言った。
「はい」
「来年はすごくいい年だよ。いいことが待っているよ」
「はい」
「わたし、サラフ親方の工房ではたらいています」
「うん、知っているよ」
「知っているの?」
「うん。仕事はたいへんなのかい」
「いいえ。じゅうたんをおる仕事はたのしいです」
「よかった」
「ジャミルは、あめをつくるのが好きですか」
「うん。好きだよ」
「ツルのあめを作るのは、むずかしいですか」
「今はむずかしくないよ」
「どうして」
「もう長いこと、やっているからね。小さい時から、やっているんだ」
「わたしも絨毯をおる仕事は長いです」
ふたりが同時に笑った。
「わたし、来年、また来ます」
「うん。必ずね。来年はすぐだから」
ジャミルはまだぽんぽんをしてくれた。
その日、玄関はとても幸せだった。
長い会話ができたので、満足していた。
ついに彼の名前がわかった。
セレザールに「ジャミル」と紙に書いてもらった。名前の字の形さえも、かわいい。
ジャミルという文字を刺繍しようかと思ったとたん、大切なことを思い出した。彼のために編んでおいた小さな鶴の織物をわたすのを忘れていた。
ばかばか、と玄関は自分の頭を叩いた。どうしてこんな大事なことを忘れてしまったのだろうか。
玄関は名前の紙を抱きしめた。
「ああ、胸がいたい。なんでじゃろうか。ジャミルのことを思うと、胸が痛いんじゃ。顔が熱くなる。病気じゃろうか」
「違いますよ。それは恋をしているからに決まっているでしょう」
「こい?」
玄関は「こい」という言葉を聞いたことがないのだった。
「恋って、何? 恋をすると、ど、どうなるんじゃ」
玄関が、地震の顔を覗き込んだ。
「病気じゃないのですから、心配することないですよ。恋は楽しいことって聞いていますから」
地震は「恋」という言葉は知っていても、まだ7歳なので、くわしいことは知らないのだった。