52. 伝説のヒロイン
その日、玄関はジャミルと並んで草の上に座りながら、山羊と羊を見張っていた。
ここは空も、海も、風も平和、動物たちもみんな元気だ。これが、幸せというもの。玄関は片眼をつぶって輝く青い空を見上げながら、あくびをひとつした。
「サナシスとハミルが旅に出かける準備をしているよ」
とジャミルが言った。
「お別れ会をしなくてはね」
「さみしくなるなぁ」
「さみしいけど、いつかは帰ってくるし。帰ってきたら、いろいろな話がきける。旅の話はきっと楽しいよ」
「玄関はサナシスやハミルのように旅をしたいのではないのかい」
ジャミルが玄関のほうに首を向けた。
「ううん。行きたいことは行きたいけど、ジャミルはこれまでずうっとわたしを見守ってくれたから、今度はわたしが見守る番。ジャミルが旅に出たいという気になるまで、そばにいるよ」
「ありがとう。でも、玄関は飛び回っているのが似合っているよ。好きなところへ出かけていっていいんだよ。ぼくはここで山羊や羊を育てながら、待っているから」
「今は、ジャミルのそばにいたい。父さんも少しずつ元気になって、今は家の修理ができるようになった。家が直ったら、ジャミル、うちに来る?」
ジャミルが驚いて向きを変えた。
「それって、一緒に住むということかい」
「そう。いやなの?」
「すごくうれしいけど」
「けど?」
「玄関の家は狭すぎるなぁ」
「でも、ジャミルの小屋はもっと小さいよ」
「ぼく、新しい家を建てようと思っているんだ。復興工事で家の建て方を習ったから、自分で建ててみようと思っているんだ」
ほら、あのあたり。ジャミルが丘のほうを指さした。
「お客さんが何人来ても泊まれるように。それから、たくさん子供が生まれても育てられように、大きな家を建てようと思っているんだ」
「わたし達の子供」
玄関が赤くなって、もじもじしとした。
「新しい家のために、わたしがタペストリーを織って、その新しい家の壁にかけるね」
「いいね」
「ベッドカバーも、それに合わせて枕カバーも作る」
「玄関は何でも、できるね」
「手を動かす仕事は大好き。集中できるもの」
その時、翼のついた靴をはいた伝令の神ヘルメスが、空からふわりと舞い降りて、女神アテナからの手紙を玄関に渡した。
「問題が起きた、至急きてほしい」
女神の手紙にはそう書いてあった。
「行っておいで。出かけていって、人の役にたっておいで」
とジャミルやさしく言った。
「ひとりになったら、さみしくない?」
「さみしいけど、これがある」
ジャミルはいつか玄関がくれた鶴のワッペンを懐から出してみせた。
「持っていてくれたの」
玄関がジャミルに抱きついた。
「ずうっともっていたよ。洞窟に閉じひめられていた時も、これを眺めていたんだ」
「ぼくは大丈夫だから行って、地中海の平和のために、働いておいで。玄関はそれができる人なのだから。玄関はぼくの誇りだよ」
玄関が微笑んで、元気に立ち上がった。
「わかりのぽんぽん」
玄関が着替えに行くと、
「今度の問題って、大変なのですか」
ジャミルが心配そうにヘルメスに訊いた。
「ネリ国がまた陸の国と戦争を始めるようなのです」
「ネリ国って、玄関の」
「そうです。玄関の兄達が治めている島国です。ちょっと考えたら、勝ち目なんかまったくないとわかるはずなのに。妹がこんなに賢いのに、兄たち3人はそろいもそろっては、なぜあんなにポンコツなのだろう」
「4人の兄妹がいる場合、4人そろって全員が賢いという例はまずないけれど、ネリ国では3人の兄たちが全員そろって問題なのかぁ。まず誰を説得すれば、糸口はつかめるかもしれませんね」
「ジャミルさん、あなたもなかなか頭がよい方ですね」
とヘルメスが笑った。
「頭はよくないですが、市場で飴を売っていた時に、さまざまな人間模様を見てきました。でも、玄関は、誰も思いつかないような妙案を出しますから、解決できるかもしれません」
「そういう賢すぎる女性を嫁にしたら、萎縮しませんか」
「しませんよ。玄関の活躍はぼくの喜びです」
「女神アテナは、玄関なら戦争をせずに、うまく和睦させられると信じています。ネリ国は玄関が統治すればいいとも言っています」
「玄関はそういうことは望んでいないと思いますが」
目の前では、山羊や羊が草を食べている。
「先日、オリュンパスの神殿で会議があって、神々がみんな集まったんですよ」
「神々はいつもあそこに住んでおられるわけではないのですか」
「あそこに住んでいるのはゼウスと妻のヘラで、他の神はみんな別の所に住んでいて、集合命令がかかるとみんなそこに行きます」
「そうなのですか」
「今回の会議のテーマは【老い】でした」
「神も老いるのですか」
「そうですよ。神も生まれて、だんだんと歳を取ります。でも、神は死にませんから、なかなかやっかいです」
「ええっ。死なないのが問題ですか。人間は不死を望んでいますが」
「いやいや、不死は不死で問題があります」
「そんなものですか」
「我々は未来を知りたいと思って、預言者を呼びました」
「神も予言を聞くのですか」
「そうですよ。預言者が言うには、我々12神も、遠くない将来にはこのオリュンパスの地を去り、この地中海を治めることなるのは人間だということです」
「人間が」
「その人間は今、はまだ少女だということですが。その少女はやがてこの地中海に平和をもたらし、その活躍は伝説になり、名前は後世まで語り継がれるそうです」
「その少女というのは、……」
「預言者は具体的な名前は言わなかったのですが、我々はその人間が誰なのか、わかっています。でも、この地中海に平和が訪れるまでには、いくつかの争いがあるそうです」
「争いはいやだなぁ。どうにかして避けられませんか」
「どうなのでしょうか。それから、その少女のそばには、彼女を支える7つの星が見えるそうです」
「7つの星、ですか」
協力する7人ということだろうか。ジャミルが名前を思い浮かべながら指を折っていると、
「見て―」
という元気な声が聞こえた。
丘の上で、よそ行きのドレスに着替えた玄関が手を振っていた。
ジャミルがそれに応えて手を振ると、スカートを風にめくらせながら、少女が勢いよく駆け下りてきた。
了




