44. サナシスと女神アプロディーテ
「サナシスよ、おまえは毎日、ここで何をしているのか」
とその美しい女性が訊いた。
「おれは海賊で、いつもは海の上なんだけど、今は休暇中なんだ。ところで、あんたはアドニスいう子の母さんかい」
「違うわ。失礼な子ねぇ」
と彼女が大声で笑った。「本当に失礼しちゃう」
「じゃ、だれ」
「私は女神アプロディーテ」
と女性が顎を引いて、背骨を伸ばした。
「ああ、すいません」
サナシスが慌てた。
「きれいな人だとは思ったんだけど、まさか美と愛の女神アプロディーテさまだとは思わなくて。あの有名な美の女神が、まさかこんな島にいるなんて思わないじゃないですか」
「いいのよ」
とアプロディーテは笑った。「母さんかいと言われた時にはショックだったけど」
「すみません」
「ねっ、そんなふうに見える?」
「いいえ。お若くて、美しいです」
「今さら遅いわよ。ところで、サナシスはどこの出身なんだい」
「西のオリーブの島という小さな島です」
「ああ、アテナの島ね。17歳になる前に恋を知ったら、罰されるという島」
「おれはあそこで問題を起こして、3歳児に転生させられたんだ」
「かわいい娘と、恋に落ちたのかい」
「いや。そういうことではないんだ」
「でも、捕まったのだろう」
「いや、その件では無罪になったんだけど。その後、まずいことがあって」
「何があったのかは知らないけど、まったく馬鹿な規則。恋を禁止して、どうなるというの? この世界に、愛よりすばらしいものはないわ。ねぇ、私と付き合うつもりはない?」
「いや。おれは、もう問題を起こしたくはない」
「つまらない子」
とアプロディーテがあくびをした。「あんなおかしなルールのある島に戻らなければ、問題じゃないじゃないの。そんなにあの島に、戻りたいの?」
「おれは、島に帰ることしか考えていない。いつかは仲間が戻ってくるから、またあそこで暮らすんだ」
「ますますいい感じ。私はありきたりな人が大嫌いなのよ。私は愛の女神だから、愛の矢で、あなたを振り向かせることなど、簡単にできるわ。やろうとお思えばね」
「そんなことまでして愛されて、幸せなんですか」
「幸せなんか、どうでもいいこと。退屈でなければね。私が真面目より、悪が好きなのは、そのせいかしら」
「アドニスは悪だったのですか」
「いいえ、いいえ。あの子はピュアだったわ。ああ、私のアドニス、悔しい。どうして、ここにいないの」
女神が地面に倒れて、アネモネの花を掴んで、土を叩いて泣き崩れた。
「人が死んでしまったら、女神の力でも、何もできないのかい」
「何もできないわ」
ははは、とアプロディーテが涙を浮かべて笑った。
「アドニスはね、冥途に行って、ペルセポネに愛されているから」
「どういうことですか」
「若いあなたは知らなくていいの」
アプロディーテは足元を見つめながら呟いた。
「私はこの悲しみとともに生きていくしかないんだわ」
サナシスが船に戻った時、海賊の仲間に森でのことを話すと、彼らがアプロディーテとアドニスのことを教えてくれた。
その昔、フェニキアの王には、ミュラーという美しい娘がいた。誰かがミュラーが世界で一番美しいと言っているのを聞いて、美の女神アプロディーテが怒った。そして息子のエロス(キューピッド)に、ミュラーに向けて矢を射させた。
矢が当たると、その人は最初に見た人に恋をするのだ。その時、ミュラーが見たのは父親だったので、彼女は父親に恋をしてしまった。
ミュラーは乳母の助けにより、父親をだまして一夜をともにすることになった。部屋を暗くして夜を過ごしたのだが、王が明かりをつけた時、関係をもった相手が娘だとばれてしまった。
王は激怒して娘を殺そうとしたので、彼女は砂漠の果てまで逃げて行った。
それを見たゼウスが可哀そうに思い、ミュラーをミルラという木に変えた。その木の間から生まれたのがアドニスだった。
アドニスは美しく成長し、森で狩りをするのが大好きな少年になった。
そんなある時、アプロディーテが森でアドニスを見かけたのだが、その瞬間、アドニスに恋してしまったのだ。
その時、アプロディーテには、すでに火の神で鍛冶屋のヘパイストスという夫がいた。
ヘパイストスは仕事ばかりの人。仕事にかけては熱心で、その腕もよく、注文が耐えない。しかし、彼は醜くて、足も悪く、それよりも何よりも、つまらないのだった。
もともとゼウスの妻ヘラによって仕組まれて結婚させられてしまったこともあり、アプロディーテが好きで結婚した相手ではなく、彼に愛を感じたことがなかった。
だから、アプロディーテは数多くの浮気をした。
もともと奔放な女神なのだが、中でも特に有名なのが軍神アレスとの関係だった。




